イタリアの歴史:la storia d'Italia

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用語

気付いた用語をまとめ中です。順不同。
アラゴーナ[Aragona]
アラゴン。後のスペインの王家。
アンジョ[Angiò]
フランス王ルイ8世の息子のアンジュー伯カルロ、いわゆるシャルル・ダンジュー(意味はフランス語でアンジューのカルロ)が、教皇ウルバーノ4世に呼ばれ、1265年にシチリア王になった所からイタリアでの王家となった。
この王家をアンジョイーニ[Angioini]と言う。
ボルボーネ[Borbone]
ブルボン。フランス系の王家。
フランク王国[Regno franco]
後に神聖ローマ帝国になる
神聖ローマ帝国[Sacro Romano Impero]
最初は西ローマ帝国の帝冠を受けたが、後に神聖ローマ帝国と名乗る。
コルシカ[Corsica]
フランスで言うCorse。サルデーニャ島の北部に位置する島。現在はフランス領になっている。
ルッカ公国[Principato di Lucca]
1805年-1847年。ブルボン。フランス系の王家。
ナポレオーネ[Napoleone]
ナポレオン1世。ナポレオーネ・ブオナパルテ[Napoleone Buonaparte]。1769年コルシカ島アヤッチョ生まれ(祖先はトスカーナ系)。
ナポレオーネ2世[Napoleone II]
ナポレオン2世。ナポレオーネ・ボナパルテ[Napoleone Francesco Giuseppe Carlo Bonaparte]。1811年生まれ。ナポレオン1世の息子で、ローマ王の称号を持つ。
ナポレオーネ3世[Napoleone III]
ナポレオン3世。ルイ・ナポレオン[Luigi Carlo Napoleone Bonaparte]。ナポレオン1世の弟の息子でナポレオン1世の前妻の孫(こっちの血縁はない)。若い頃は炭焼党の一員で、その後フランス皇帝となる。カヴールに味方したイタリア統一の立て役者でもあり、ガリバルディ のローマ併合(アスプロモンテの戦い)を邪魔もした。
ニッツァ[Nizza]
現在フランス領のニース[Nice]。現地語ではニッサ。
リーグレ共和国[Repubblica Ligre]
リグーリア共和国とも。1797年〜1805年。
サルデーニャ王国[Regno di Sardegna]
1720年サヴォイア公国は、シチリア島とサルデーニャ島を交換したが、王位はシチリアの方にしかなかった。
しかし王位を手放す訳にはいかなかったので、サヴォイア公はサルデーニャ王を取得した。
これに伴いサルデーニャ王国が成立した。現在のイタリア共和国の前身のイタリア王国の土台となる。
サルデーニャ王一覧
チザルピーナ共和国[Repubblica Cisalpina]
(1797年6月29日)ナポレオンによって北イタリアに作られ、カンポフォルミオ条約(1797年10月17日)でオーストリアに承認された。1802年1月26日、イタリア共和国と改称首都はミラノ。
ロンバルド=ヴェネト王国[Regno Lombardo-Veneto]
1815年4月7日樹立。王はオーストリア皇帝のフランツ(フランチェスコ)2世が兼ねた。
教皇国家(stato pontificio], 教会国家(stato della chiesa]
ローマ教皇を元首とする国家で、1870年まで存在した。
オドアクレ[Odoacre]
[434 ca - Ravenna 15.3.493)蛮族王。西ローマ帝国の皇帝ロモロ・アウグストを廃位し、イタリア半島を手に入れた。会談中テオドリーコに殺された。
東ゴート王国[Ostrogoti]
テオドリーコ率いるゲルマン人の一部族東ゴート族[Ostrogoti]が、ラヴェンナを首都とするオドアクレのイタリア王国を引き継いで出来た王国。東ゴート族の王テオドリーコもイタリア王を名乗ったので、イタリア王国であるとも言える。
ロンゴバルド族[Longobardi]
日本では「ランゴバルド」と呼ぶ事が多いが、ラテン語起源ではないかと思われる。スカンディナヴィア半島辺りから来たと言われているゲルマンの一部族。その後パンノニアに王国を作りイタリアに侵攻した。
ロンゴバルド王国
ランゴバルド王国とも。ロンゴバルド族の王アルボイーノはイタリア半島から東ローマ軍を追い出し支配した。これもイタリア王国。
サヴォイア公国[Ducato di Savoia]
1416年にサヴォイア伯領から発展した。サヴォイア自体は現在フランスの領土になってしまっている。
イタリア王国[Regno d'Italia]
イタリア王国は君主をイタリア王とする国である。
  • 1805年、フランス皇帝でイタリア共和国大統領のナポレオーネ・ブオナパルテはイタリア共和国を自身を王とするイタリア王国[Regno Italico]を設立した。イタリア半島は南部のシチリア王国とで二分された状態まで統一された。
  • 1861年にイタリア半島やシチリア島を統一したサルデーニャ王国はコルシカ島とサヴォイアをフランスに譲ることでイタリア王国を認めさせた。第二次世界大戦終了後、イタリア王は廃位されイタリア共和国となり現在に繋がっている。
トスカーナ大公国[Granducato di Toscana]
コジモ・トスカーナ大公を君主とする国。
エトルリア王国[Regno di Etruria]
1801年3月21日にナポレオーネがトスカーナに設立。1807年フォンテンブローの条約により、フランス連合に入る。1809年トスカーナ大公国になる。
パルマ・ピアチェンツァ公国[Ducato di Parma e Piacenza]
1545年に成立
シチリア王国[Regno di Sicilia]
ノルマン人のロベルト・グイスカルドの弟、ルッジェーロはシチリアをイスラム教徒の支配から奪いシチリア伯としてシチリアを治めた。
ロベルト・グイスカルドの死後、イタリア半島南部も手に入れた甥のルッジェーロ2世は教皇にシチリア王を名乗ることを申し立てて、以後シチリア王となった。
ルッジェーロの子孫のコスタンツァは神聖ローマ帝国皇帝ハインリヒ6世と結婚した。
彼女たちの息子のフェデリーコはシチリア王でありながら、皇帝フリードリヒ2世となる。
この事はイタリアのほとんどを手中に納めた事になり、残りの部分を持つローマ教皇は危険を感じ、フランス王の息子シャルル・ダンジューをシチリア王カルロ1世とした。
カルロは教皇の思惑通りフェデリーコの子孫を滅ぼしシチリアを手に入れたが、シチリアでフランス人に対する暴動が発生し、半島南部とシチリアは別々の王が治めることになった。
フェデリーコの孫のコスタンツァと結婚した、アラゴン王ペドロ3世がトリナクリア王ピエトロ1世となる。
その後スペイン継承戦争でサヴォイア家が取得。1720年、サヴォイア家はオーストリアとシチリア島とサルデーニャ島と交換。その結果、ナポリとシチリアは再び結合する。1734年にはブルボン家スペイン王の息子ドン・カルロスが侵攻しナポリ・シチリア王となる。次代のフェルディナンド3世の治世にはナポリ王国をフランスに奪われるが、ウィーン条約で奪回する。両シチリア王国と改名した。
トリナクリア王国[Regno di Trinacria]
1302年。トリナクリアとはシチリアのギリシャ時代の古名で、シチリアが三角形をなすことが由来。1302年カルタベッロッタの和[la pace di Caltabellotta]でシチリア王フェデリーコとナポリのアンジョ王家が和解し、シチリア島側はトリナクリア王国と名乗った。
ナポリ王国[Regno di Napoli]
1282年のシチリアの晩鐘事件[Vespri siciliani]で、シチリアを追い出されたカルロ・ダンジョはシチリア島以外のシチリア王国の王となった。
カストロ公国[Ducato di Castro]
1537-1649。教皇領から分離し、教皇領に併合。
ベネヴェント公国[Ducato di Benevento]
パルテノペ共和国[Repubblica Partenopea]
別名ナポリ共和国。1799年に成立
両シチリア王国[Regno delle due Sicilie]
シチリア王フェルディナンド3世は、ナポリ王フェルディナンド4世の王位を統合し、1816年に両シチリア王国を設立した。この王国はガリバルディのシチリア征服まで存在した。
チスパダーナ共和国[Repubblica Cispadana]
トランスパダーナ共和国[Repubblica Transpadana]
トラスパダーナとも。(1796/) 非公式
ジェノヴァ共和国
海洋国家。1797年滅亡
ピサ共和国[Repubblica Pisana]
海洋国家
アマルフィ共和国
海洋国家
ヴェネツィア共和国[Repubblica di Venezia]
ヴェネツィアを中心として発展した海洋国家。東地中海の覇権を取ったがナポレオーネによってドージェが廃止された。
ヴェネト共和国[Repubblica Veneta]
1848-1849。別名サン・マルコ共和国[Repubblica di San Marco]
ローマ共和国[Repubblica Romana]
1798-。
ローマ共和国[Repubblica Romana]
1848-1848。1848年にイタリア各地で起きた革命国家のうちの一つ。
ラグーザ共和国
アメデーオ8世[Amedeo VIII]
(Chambèry 4.9.1383 - Ginevra 6.1.1451)。 アメデーオ7世の息子。1416初代サヴォイア公になる。対立教皇フェリーチェ5世。
ヴィットーリオ・アメデーオ1世[Vittorio Amedeo I]
(Torino 8.5.1587 - Vercelli 7.10.1637)。カルロ・エマヌエーレ1世の子。
ヴィットーリオ・アメデーオ2世[Vittorio Amedeo II]
(Torino 14.5.1666 - Rivoli 31.10.1732)。
ヴィットーリオ・アメデーオ3世[Vittorio Amedeo III]
(Torino 26.6.1726 - Moncalieri 16.10.1796)カルロ・エマヌエーレ3世の子。
カイオ・ジューリオ・チェーザレ[Caio Giulio Cesare]
(Roma 13.7.-100 - Roma 15.3.-44)。いわゆる、ユリウス・カエサル[ラテン:Caius Iulius Caesar]。昔は英語読みでのシーザーとも。
カルロ・エマヌエーレ2世[Carlo Amedeo II]
ヴィットーリオ・アメデーオ1世の子
カルロ・エマヌエーレ3世[Carlo Amedeo III]
ヴィットーリオ・アメデーオ2世の子
カルロ・エマヌエーレ4世[Carlo Amedeo III]
ヴィットーリオ・アメデーオ3世の子
ウンベルト1世[Umberto I]
イタリア王
従妹である王妃マルゲリータはピッツァの名前で有名。
ラディズラーオ[Ladislao]
1377-1414。1386にナポリ王
ジョヴァンナ1世[Giovanna I]
1326-1382/5/22。ナポリ女王
ジョヴァンナ2世[Giovanna II d'Angiò Durazzo]
1371-1435/2/2。ナポリ女王。カルロ3世とマルゲリータ・ドゥラッツォの娘でラディスラオの姉。1415年、ジャコモ2世(ボルボーネ)と結婚。
グリエルモ1世[Guglielmo I il Malo]
1120-1166。ルッジェーロ2世の子。シチリア王
グリエルモ2世[Guglielmo II il Buono]
1153-1189。グリエルモ1世の子。シチリア王
グリエルモ3世[Guglielmo III]
1185-1198。タンクレーディの子。シチリア王(1194)。
エリーザ・ボナパルテ・バチョッキ[Elisa Bonaparte Baciocchi]
ナポレオーネの妹
マリーア・テレーザ[Maria Teresa]
1717/5/13-1780/11/29。皇帝カルロ5世の娘。1736年フランチェスコ・ステーファノ・ロレーナ公と結婚。
ロマーニャ[Romagna]
フォルリ、チェゼーナ、ラヴェンナ、リミニ、イモラ、フィレンツェ県の一部
モンテフェルトロ[Montefeltro]
フォルリ、ペーザロ、ウルビーノ
教皇国家[stato ponifico, stato della chiesa]
ウルビーノ[Urbino]
マルケ州。1213からモンテフェルトロ領に
ジュゼッペ・ガリバルディ[Giuseppe Garibaldi]
イタリア統一の英雄の一人。
マラテスタ家[Malatesta]
リミニの領主家系
ボルジャ[Borgia]
スペイン系の家系。ロドリーゴが教皇になり、息子のチェーザレが君主論の為に有名になった。
マリーア・ルイージャ・ダスブルゴ=ロレーナ[Maria Luigia d'Asburgo-Lorena]
1791/12/12-1847/12/17。オーストリアの皇帝フランチェスコ1世の娘。
1810ナポレオーネと結婚し息子ナポレオーネ・フランチェスコをもうけた。1822
カンポフォルミオ条約[trattato di Campoformio]
現在のウーディネ県カンポフォルミド[campoformido]で1797/10/17に締結。
ロベルト・グイスカルド
プッリャ公(1509〜]
オッソラ共和国[Repubblica dell'Ossola]
ドモドッソラを首都にしたパルティジャーノによる政府。(1944/9/10〜1944/10/22)
アルフォンソ5世[Alfonso V il Magnanimo]
アラゴーナの王。ナポリ王アルフォンソ1世
スポレート公国[Ducato di Spoleto]
570年頃成立
ジョヴァンニ(ジャン)・ガレアッツォ・ヴィスコンティ
[Pavia 1351/10/16 - Melegnano 1402/9/3)
サルッツォ侯国[Marchesato di Saluzzo]
1130-1601/1/17。
マッシミリアーノ・スフォルツァ[Massimiliano Sforza]
[Milano 1493 - Parigi 1530)
フォスディノーヴォ侯国[Marchesato di Fosdinovo]
カルロ6世
Carlo VI [Vienna 1685/10/1 - ivi 1740/10/20) レオポルト1世の息子。ハプスブルグ家の直系継承権男子で最後。1703年からスペイン王カルロス3世。1711年兄弟の皇帝ヨーゼフの死後、皇帝に選出された。1714年ラシュタット条約でフェリペ5世にスペイン王を譲ったが、オランダ、ミラノ、ナポリ王国とサルデーニャ(1720年にシチリアと交換)を交換で取得。1738年ポーランド継承戦争に巻き込まれ、ナポリとシチリアを失った(ウィーン条約)。 男児はなく娘にマリアテレーザがいる。
アルタヴィッラ家[Altavilla]
フランス語ではオートヴィル[Hauteville]。ノルマンディー地方のオートヴィル伯という小さな領主だったタンクレーディ[Tancredi]は12人の息子がいた。その息子のロベルト・グイスカルドとルッジェーロは南イタリアのほとんどを征服した。
ヴィスコンティ家[Visconti]
ミラノを中心にする貴族家系。映画監督のルキーノ・ヴィスコンティはその子孫である。
オットーネ・ヴィスコンティ[Ottone Visconti]
(1207-1295) 1262年、ウルバーノ4世からミラノ大司教に任命される。
イヴレーア侯国[Marca d'Ivrea]
9世紀にグイード・ダ・スポレートにより建国され、イタリア半島で最強の勢力を誇ったが、アルドゥイーノがイタリア王になった後は衰退した。
ロベルト・グイスカルド[Roberto il Guiscardo]
(1015 - Cefalonia 1085/7/17) 11世紀にノルマンディーから来た武人。ノルマンディーは今のフランスの領土だからか、ノルマン人研究をするのがフランス系の研究者が多いからか、フランス風にロベール・ギスカールと書くことも多い。ちなみに当時の公用語のラテン語ではロベルトゥス・グイスカルドゥス(当時の発音では結局ロベルト・グイスカルドになるのかも)。このグイスカルドは通称で、「狡猾な」という意味らしい(ちなみにguiscardoは辞書になく元は何語なんだろう?)アルタヴィッラ家の一人なので、ロベルト・ダルタヴィッラ[Roberto d'Altavilla]である。プーリア・カラブリア公になり、後のシチリア王国の基礎をつくった。晩年は東ローマ帝国の征服のため遠征していたが、チェファローニア(現ギリシアのクレフ島)で病死した。
ドージェ[Doge]
ヴェネツィア共和国やジェノヴァ共和国の総督。ラテン語のduxから来ている。
ドゥーチェ[Duce]
古代ローマの総統。ラテン語のduxから来ている。ファシズム時代はムッソリーニを指す。
ドゥーカ[Duca]
公。ラテン語のduxから来ている。
ケラスコの和[pace di Cherasco]
1631年4月6日、ケラスコ(クーネオ県)で、フランス王ルイ13世、皇帝フェルナント2世、ヴィットーリオ・アメデーオ1世の間で、第2次モンフェッラート戦争の集結のため締結した。ヴィットーリオ・アメデーオ1世はアルバ[Alba]やトリーノ[Trino]などの要塞がある地域を手に入れ、フランスはピネローロ[Pinerolo]、スーザ[Susa]、アヴィリアーナ[Avigliana]マントヴァはオーストリアからカルロ・ゴンザーガ公に戻った。
ケラスコの休戦[armistizio di Cherasco]
1796年4月28日、サルデーニャ王国はナポレオン率いるフランスに降伏し、サヴォイア、ニッツァ、クーネオ、クーネオ南部のテンダ[tenda](1947年までクーネオ県、現フランスのTende)とブレリオ[Breglio](現Breil)を割譲することになった。
バリッラ[Balilla]
ジェノヴァの人民革命のシンボル。ジョヴァンニ・バッティスタ・ペラッソ[Giovanni Battista Perasso]の渾名で、悪ガキの意味だとか。ファシズム期の1926年にはこのイメージが使われ、8歳から14歳の少年からなるバリッラ国家事業[Opera Nazionale Balilla]が作られた。
イッレデンティズモ[irredentismo]
統一出来ていないイタリア人がいる土地を「未解放の土地[irredente]」と定義し、それをイタリアに加えることが政治的な運動となった。つまりは他国への侵略の正当化である。統一後の19世紀からの考えではあるが、現在でも生きている。
トゥーシャ公国[Ducato di Tuscia]
570年に成立したロンゴバルドの国。首都はルッカ。770年にフランク族の侵入で滅亡。

イタリア イタリアの歴史 年表(ローマ帝国滅亡からイタリア統一)

23-05-2005 A cura di Ciro