イタリアの歴史はもちろんローマ以前にもあったといわれてます。
エトルリア人の国やギリシャ人の植民地です。
でも、古代ローマの建国からはじめましょう。
と、その前にこの歴史のページではほとんどの人名がイタリア読みになっています。
特にイタリア以外から来た人物はそこの呼び名で呼ぶ事が日本では多いのですが、あえてイタリア語読みです。
なのでフランスのシャルル、ドイツのカール、スペインのカルロスもイタリアに来た時点でカルロです。
ついでに古代ローマの人もイタリア読みにしました。
ローマ建国、王政ローマ
古代ローマとか、ローマ帝国という名前を聞いたことがありますか?
これは、紀元前に出来た国で名前は「
ローマ」、
そのローマと言う国の首都は同じ名前なので区別するためにそうよばれています。
ローマの建国は伝説になっていて、狼に育てられた双子のローモロ[Romolo](ラテン語で言うロムルス)とレーモ[Remo]が建国しました。
とは言っても、建国のはっきりした年は不明です。
で、最初は兄のローモロがローマの王でした。ローマと言う名前もローモロから名付けられています。もちろん昔の伝説なので、本当に居たかどうかはっきりしていません。お墓は有りますけどね。
実際は、エトルリア人の町だったといわれてます。ローマと言う名前もエトルリアの名前だとか。
しばらくローマは王によって治められる王政ローマの時代となります。
この時代は7人の王が居ました。
共和制ローマ
その後、ローマは王政から共和制にかわります。紀元前509年の事です。
共和制と言うのはローマの市民が代表者を選ぶ事です。共和制ローマはローマ共和国とも言われます。
この時代、ローマは次々と他国を統合して行きます。
カイオ・ジュリオ・チェーザレという人物が登場します。
ラテン語のカイウス・ユリウス・カエサルで有名です。
彼はガリア(今のフランス)を平定したり、
民衆に王となるよう求められるほどの人物でしたが、
いずれ王になるのではないかと思った、王政を反対する人々に殺されました。
ローマ帝国
カイオ・ジュリオ・チェーザレが殺されたあとの紀元前27年に、
ジュリオ・チェーザレの義理の息子の、カイオ・ジューリオ・チェーザレ・オッタヴィアーノ[Caio Giulio Cesare Ottaviano]と言う人が、初の皇帝になります。
というかこの人が皇帝と言う役職を作りました。軍を率いる人という程度の意味です。
ラテン語ではオクタヴィウス[Octavius]です。彼は皇帝アウグスト[Augusto](アウグストゥス)となりました。
イタリア語の8月[Agosto]は彼の名前から付けられています。
ローマ帝国はまわりの国々を制覇して地中海を「自分達の海」とまで言うようになります。
東西ローマ帝国
395年に、ローマ帝国は東と西にそれぞれ皇帝を置くことにしました。
なにしろ、領土があまりに広く当時は鉄道や飛行機もないので移動が大変だったから。
ここで、現在の東欧と西欧のだいたいの枠組みが出来たとも言えます。
4世紀のこの頃、
サン・マリーノ共和国が建国されてます。
以降、他の国による占領などは有ったけど現在まで独立国で、現存する世界最古の共和国といわれてます。
西ローマ帝国滅亡
476年、西ローマ帝国の皇帝だったロモロ・アウグストロ[Romolo Augustolo]は、
ゲルマン人の一部族の王オドアークレ[Odoacre]に皇帝をやめさせられました。
で、オドアークレは東ローマ帝国の皇帝にそのことを認めてもらった。
これで、西ローマ帝国は滅亡ということになります。
ゲルマン人の侵攻
476年に西ローマ帝国が滅亡したあと、オドアークレがイタリアを支配します。
しかし、オドアークレは
493年にラヴェンナでゲルマン人で東ゴート族の王であるテオドリーコ[Teodorico]に殺されます。
テオドリーコは「ゴート族とローマ人の王」を名乗りイタリアは東ゴート王国の一部になってしまいます。
526年にテオドリーコも死ぬと、554年にはイタリア半島は東ローマ帝国の一部になります。
そしてこれがローマ帝国としてのイタリアとして最後になりました。
ロンゴバルド王国
その後、アルボイーノ率いるゲルマン人のロンゴバルド族が、イタリア半島から東ローマを追い出してイタリアにロンゴバルド王国を築きました。
774年。そのロンゴバルド王国はゲルマン人のフランク族のカルロ・マーニョ[Carlo Magno](シャルルマーニュとかカール大帝とか呼ぶ)に滅ぼされます。
ロンゴバルト族の国は南イタリアのベネヴェント公国だけがぽつんと残りました。
中世、近世(ローマの滅亡からイタリア王国建国まで)
フランク帝国と神聖ローマ帝国
800年にカルロ・マーニョがローマ皇帝の王冠をローマ教皇から戴冠された。
これは東西に分割されたローマ皇帝の西側の冠。
なので、カルロ・マーニョの国は形式上ローマ帝国と言うことになった。
でも歴史上はフランク帝国と区別して呼ぶ。
962年。オットーネ1世が、ローマ帝国の皇帝になった時からは歴史的には神聖ローマ帝国[Sacro Romano Impero]とよばれている。実際神聖ローマ帝国と呼ばれたのは13世紀かららしい。なので、これもローマ帝国。
このローマ帝国では、都市は比較的自由に自治が出来たようで、ジェノヴァは一つの共和国になっている。また、他の王国や公国も帝国の配下になっている。ようするに皇帝の下に、王や公爵がいる。
この時、ローマ教皇は自分の領地を持つことになった。これが教皇領。現在のヴァティカン市国に繋がる。
ちなみにヴェネツィア共和国は東ローマ帝国の管轄。
ノルマン人とシチーリア王国
11世紀の終わり、
フランスのノルマンディー地方からやってきたノルマン人は、戦闘能力の高さを買われ東ローマ帝国の領土もしくは属国がいくつかあった南イタリアの各国で活躍し、封建領土としてもらっていました。
そんな噂を聞きつけて兄弟と共にやってきたロベルト・グイスカルド[Roberto il Guiscardo]は、南イタリアの大部分を占領。教皇にプーリア公として認めてもらいます。一緒に来た弟のルッジェーロ1世はシチーリア島を支配していたアラブ人を追い出し、シチーリア伯となりました。
その後、ルッジェーロ1世の子、つまりロベルト・グイスカルドの甥のルッジェーロ2世は東の皇帝に認めてもらうことでシチーリア伯からシチーリア王となり1130年シチーリア王国が誕生しました。
この時のシチーリア王国は、もともとシチーリアにいたギリシャ系の人間と、
占領していたアラブ人、それを追い出したノルマン人が互いに助け合っていた。
その子孫のシチーリア王フェデリーコ1世は、父親が神聖ローマ帝国の皇帝だったので皇帝になれた。
つまり、この事は父親からイタリアの北半分を領土にしていた神聖ローマ帝国と、
母親からは南半分を領土にしていたシチーリア王国の両方の領土を手に入れることになった。
フェデリーコは皇帝の座は弟に譲って、
生まれ育ったイタリアは自分が統治することにした。
間に挟まれたローマ教皇はたまった物じゃない。
おまけに国内の異教徒と仲良くしているのも教皇は気に食わない。
教皇はフェデリーコに十字軍を編成させてエルサレムのアラブ人を追いだしに行かせる。
しかし、フェデリーコは話し合いで解決。異教徒を殺さない事に教皇は怒る。
両者は仲が悪くなり、イタリアの各都市も、貴族たちも街の人も教皇派と皇帝派に別れていがみ合った。
ちなみにこの時の悲劇を書いた物がシェークスピアのロミオとジュリエットだ。
蛇足ながら、この話はヴェローナの作家ルイージ・ダ・ポルトの「ジュリエッタとロメーオ」を元に書かれている(話の原形は更に遡る)。
しかし、イタリアを愛した皇帝フェデリーコはイタリア統一を夢見たが、
惜しくも残りは教皇領のみという所で志半ばで亡くなっている。
シチーリアの晩鐘
教皇は、皇帝と仲の悪いフランス王ルイ8世と手を組み、
王の息子のシャルル・ダンジューに来てもらうことにした。
シャルルは教皇からシチーリア王カルロ1世の王位をもらい、フェデリーコの子孫を滅ぼした。
しかし、シャルルについてきたフランス人はシチーリア人には受けが悪く、
1282年3月30日の夕暮れ時、民衆は大暴動。フランス人を殺しまくる事件となった。
これがシチーリアの晩鐘事件[Vespri Siciliani]。裏では皇帝派が動いたとも言われている。
そんなこんなでシャルルはシチーリア島を逃げ出した。
シチーリア王位はそのままだったのでナポリを首都としたシチーリア王国を設立。
シチーリア島はフェデリーコの子孫のコスタンツァがアラゴン王ペドロ3世と結婚して、
トリナクリア王ピエトロ1世としてシチーリア島を治める事になった。
リナシメント
15世紀から、16世紀にはリナシメント[rinascimento]、いわゆるルネサンスがイタリアのフィレンツェを中心に起きた。
これは文学や芸術の復興という意味で、古代ローマ滅亡後に、なんだか今一つぱっとしなかった芸術や、
文章なんかはラテン語で書かれてたけど、みんなが喋ってるイタリア語(もちろん昔の)で書く様にした。
ダンテ、ペトラルカなどがイタリア語で創作活動をした。
絵画ではボッティチェッリ、レオナルド、ラファエッロなど。
リナシメントはローマにも伝播し、やがてヨーロッパ全体へ広がった。
フランスの侵略
15世紀の終わり16世紀の始めはフランスによる侵略。
リナシメントで華やかな雰囲気になっていたイタリアは、外国から見てうらやましく思えた。
そこで、フランスの王様シャルル8世はなんとナポリ王国の継承権を主張して、
ナポリに向かって軍隊を出撃させた。
まあ、ナポリ王レナートの妹の息子かなんかで、王族同士が親戚だからしょうがないけど、
なんにしろ王様が息子を残さずに死ぬと荒れると言う時代だった。
それに対して近所の国同士は仲が悪い例にもれずイタリアの各国の対応はバラバラで、
ミラーノ公国はフランスに味方したし、フィレンツェは素通し。
フランス軍はローマも抜けてなんなくナポリを占領できた。これが
1495年のこと。
教皇が神聖同盟を結成してシャルルは撃退されたが、
これがきっかけで、「イタリアって大したことないやん」とフランスに思われた。
1498年には、シャルルの従兄弟のルイ12世がミラーノを侵略。
スペイン時代
オーストリアの侵略
18世紀はスペイン王に息子がいなかったことから、スペイン王位をめぐって、フランスとオーストリアが取り合う。これがスペイン継承戦争で、やっぱり王族が親戚同士なので起きた。
イタリアのいろんな地域がスペインの支配下にあったんで、イタリアも影響から逃れられない。
それが終わったら、ポーランド、オーストリア継承戦争と続いた。
ナポレオンの侵略
ナポレオンは先祖はイタリア人で、トスカーナからコルシカ島に移民した家族の出身だった。
イタリア風に言うとナポレオーネ・ブオナパルテという名前となる。
当時コルシカはフランス領となっていたので、彼はフランスの学校に行った。
成人するとフランスの将軍としてイタリアに遠征。次々とイタリア各地を占領して行った。
強かったから?というか、当時フランスでは自由の名の下にフランス革命が起きていて、
王や公爵と言った貴族による政治を民衆が嫌うようになっていた。
それにうまく付け込んで、イタリアでも解放という形で占領して行った。
もちろん、イタリア人達も解放されたと思った。
最初はトラスパダーナ共和国やチスパダーナ共和国という感じで共和国を作っていった。
1802年、イタリア北部はイタリア共和国と言う名前で統一されナポレオンは大統領となった。
しかし、ナポレオンはイタリアでは民主主義を実行せずに、
イタリア共和国をイタリア王国として自分が王になった。
シチーリアを除く南イタリアはナポリ王国として、自分の妹の婿を王にした。
この時は教皇のローマすらもナポレオンの王国になり、
イタリアで残ったのはサルデーニャ王国とシチーリア王国だけで、
サルデーニャ国王はサルデーニャ島に逃げたので本土側のピエモンテはナポレオン領土となった。
ウィーン体制
ナポレオンが失脚すると、
1814年9月22日オーストリアのウィーンで会議が行われてヨーロッパの国境をナポレオンが活躍する前に戻そうと言う話になった。
しかし、会議の出席者は貴族ばかりなので、共和国は戻さないことになった。
これで、ヴェネツィア共和国の1000年の歴史は完全に終った。ヴェネツィア共和国の領地はオーストリアが奪った。
同様にジェノヴァ共和国も無くなり、
フランスの隣の国を強化するためにサルデーニャ王国にくっつけられた。
このときナポレオンが統合しなかったサン・マリーノ共和国は残った。
イタリア統一戦争
ナポレオンが占領するまでの何百年と言う間イタリアという国はなく、イタリアと言えば
例えば今のイベリアのように半島の名前というか歴史的な地域の名前でしかなかった。
オーストリアの宰相メッテルニヒに至っては「イタリアは地理的名称であって、国の名前であってはならない」とまで言っている。
しかし、ナポレオンがもう少しでイタリア半島を統一しかけていた。
ならばイタリア人の手でイタリアと言う国をつくろうという運動がイタリア各地で活発になった。
この運動はリナシメントに対してリソルジメント[risorgimento]と呼ばれる。
もちろんいままで無かったわけでもなく、
19世紀は、オーストリアとフランスと言う大国に挟まれたイタリアが、自立しようと言う動きを見せる。
ここで担がれたのは、ナポレオン時代にイタリア系君主として唯一残っていた、サルデーニャ王だった。
サルデーニャ王国は、サルデーニャ島とピエモンテ地方を持つだけの小国だったので、
あるときはフランスに味方したり、オーストリアに味方したりと忙しく振る舞っていた。
しかし、フランス革命の影響で、自由と革命が世にはびこっていたのでそれを利用して
イタリアに多数有った小さい国を少しづつ攻めて行った。
残ったのは南半分の両シチーリア王国だったけど、これも内部的にはボロボロだった。
それに、イタリア半島で一つの国をつくろうと言う目標は、
多くの住民にも受け入れられたので最後の一押しはたった1000人を率いたジュゼッペ・ガリバルディの遠征の成功で終わった。
両シチーリア王国を降伏させたガリバルディは、
サルデーニャ王ヴィットリオ・エマヌエーレ2世に両シチーリア王国を進呈して、
北イタリアと南イタリアは1300年以上の時を経て正式に一つの国に戻った。
イタリア王国成立
1861年3月17日サルデーニャ王国はイタリア王国となった。
初代国王はヴィットリオ・エマヌエーレ2世。初代なのに2世で、首都はトリーノのまま。
結局はサルデーニャ王国の領土拡張ではないかと言われた。
6月には統一の立て役者の一人で首相のカヴールが死んだ。
おまけにローマ近辺は今だに教皇領のまま、ヴェネツィアを中心とするヴェネトもオーストリアの領地となっている。
そんな状態を見かねて1862年にはガリバルディによる「アスプロモンテの変」とよばれる内乱が起きた。
1865年に首都をフィレンツェにすると、それに反対するトリノで暴動が起きる。
1866年には普墺戦争(プロイセンとオーストリア)で、
プロイセン側に味方し第三次解放戦争(独立戦争)としてオーストリアに宣戦してヴェネーツィアを手に入れた。1870年、普仏戦争がはじまると、教皇国(首都ローマ)を防御しているフランス軍の防御が手薄になったため、
ローマへ進軍しローマを併合した。これに不服なローマ教皇はヴァティカンにひきこもってしまった。
領土の拡張
イタリアは、他のヨーロッパ諸国の様に植民地がないのが国が貧しい理由だと思った。
アフリカのエティオピア王国に戦争を仕掛けたが負けてさらに貧しくなる。
トゥニジアが欲しかったが友好国であるフランスに取られていたため、何とかリビアを手に入れた。
また、イタリア系住民が多く住むフリウーリやジューリアやトレンティーノ地方はまだオーストリアが持っていた。
第一次世界大戦がはじまると、最初はイタリアは中立を決め込んだ。
しかしオーストリアとの同盟が終了したのを契機に、1915年オーストリアに宣戦布告した。
この戦争はすぐに終わると思っていたのに、イタリア軍はほとんどオーストリアに攻め込むこともできず、逆にヴェネト地方を占領されると言う状態に…。
終戦間際にヴィットーリオ・ヴェネトでなんとか勝利を手にして面目を保っただけだった。
戦争終了後、一応は勝ち組に入ったイタリアはオーストリアが持っていたイタリア人が多く住む地方を手に入れた。
また、ヴェネツィア共和国が領土としていたフィウーメやダルマツィア、アドリア海の島などを要求した。
しかし、これをアメリカは許さなかった。
これにイタリア国民は失望し、政府に責任を求めた。
なぜならフリウーリやジューリアやトレンティーノは、戦争に参加しなくても、
というかイタリアが中立をしていればオーストリアがくれる事になっていたから。
結局、大勢のイタリア人が犠牲になって大した利益はなかったのだった。
ペスカーラ生まれの詩人ガブリエーレ・ダンヌンツィオ[Gabriele D'Annunzio]は、
大戦中オーストリアに飛行機でビラを撒くなど勇気ある、ある意味血気盛んな人物で、国民的英雄。
1919年には彼はなんとフィウーメ進軍と称して、
赤いスポーツカー(FIAT 501 tipo 4)でフィウーメに行き占領。
そのまま、独立国としてしまった。
ファシズムの台頭
イタリア社会党の広報誌アヴァンティ!編集長ベニート・ムッソリーニは、
第一次世界大戦に反対する党に対し、参戦を主張していたため社会党を除名されていた。
大戦後、急速に社会主義が広まって行くイタリアで、
社会主義に変わる新たな動きとしてファシズムを造ったのがムッソリーニである。
ムッソリーニはダンヌンツィオが行ったような舞台のような演説を行ったり、
大衆を暴力で支配するという方法で、人気を集めた。
そして社会主義を恐れるブルジョアがファシズムを利用した。
1922年、ムッソリーニはローマ進軍という今で言う同時多発テロを計画したが、
内戦を恐れた国王はムッソリーニを首相に任命。列車によるローマ進軍で政権を取得した。
ファシズムの時代
ムッソリーニはファシスト党以外の党を非合法にするという法律で、一党独裁体制を造った。
さらに彼はファシスト党も独裁していたため、
イタリアは完全に一人の人間に運命をまかせる事になった。
第一次大戦に敗北したドイツではムッソリーニのやり方を真似たヒトラーが登場し、
ドイツの国力を利用して復活。隣国を征服して行った。
ファシズムは戦闘するという本質に縛られ、イタリアもエティオピアなどの征服に乗り出した。
これを咎める、国際連盟を1937年に脱退し、いままで味方にしていたイギリス、フランスとの関係も悪化した。
同じファシズム国家であるドイツとの接近となる。
第二次世界大戦
片方が戦争に突入するともう片方も自動的に参戦するという、ドイツとの鋼鉄条約に縛られたけど、
戦争の準備が出来て居ないと言う理由でイタリアは参戦しないでいた。
しかし、結局ドイツからの支援を受けて1940年に参戦。
ムッソリーニは、この戦争は数週間で終わりイタリアは勝ち組となって領土を広げる事が出来ると思っていた。
確かに最初は勝っていて、コルシカ島やニッツァやサヴォイアなどのフランス領も一時的に獲得できた。
しかし、アメリカの参戦とともに状況が思わしくなくなり、敗戦が濃厚に。
そのためムッソリーニは失脚して、首相を降ろされた。
しかし、ムッソリーニは諦めずにドイツに支援をしてもらいイタリア北部を掌握。
新政権は南部を主体に活動し、イタリア人同士が戦うという泥沼の内戦状態となる。
アメリカ軍の上陸や、市民によるパルティジャーノ(パルチザン)と呼ばれる戦闘組織によりドイツ軍は退却し再び平和が訪れた。
イタリア王国の年表
イタリア共和国
1946年 | | 第二次世界対戦後、イタリア王国は国民投票により共和制を選択。イタリア共和国となる。
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1947年 | 2月10日 | パリで連合国との平和条約を調印、海外領土、植民地さらにはイストリア半島やフランスとの国境地帯を失う。
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1950年 | | ソマリアが信託統治領に。
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1951年 | 12月24日 | リビア連合王国として独立。
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1960年 | 7月1日 | ソマリア独立。
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1970年 | | 州制度実施
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1999年 | | 通貨統合
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2002年 | | 通貨統合によるリラの廃止。
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リンク
イタリアにはイタリア関係を含む世界の歴史のページが、歴史の国だけあって豊富にある。
ただし、ヨーロッパの人名はイタリア語になってるのが多い。
イタリアの歴史
CRONOLOGIA - 2000 ANNI DI STORIA(伊語)。イタリアと世界の歴史。
RULERS ATLAS WORDS(伊語)。世界の歴史。年表や政府の要人の一覧など。
GENEALOGIE DELLE DINASTIE ITALIANE(伊語)。イタリアの貴族などの血統
イタリア
ローマ帝国滅亡後の年表
イタリア王国の年表
イタリアの王
21-01-2007 a cura di Ciro