年 | フランス東部 | 北西部 | 北中部 | 北東部 | 北部 | 中部 | 南部 | その他 | 年 | ||||||||||||||||||||
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サヴォイア、 ニッツァ | サルデーニャ | ピエモンテ | モンフェッラート | リグーリア | ロンバルディア | エミーリア | ロマーニャ | ヴェネト | フリウリ | トレンティーノ | トスカーナ | ラツィオ | マルケ、ウンブリア | イタリア半島南部 | シチーリア | コルシカ | 他(関連事項) | ||||||||||||
トリノ、アオスタ… | アスティ、 アレッサンドリア | ジェノヴァ | ミラーノ、 クレモーナ… | マントヴァ グアスタッラ | パルマ、 ピアチェンツァ | モーデナ レッジョ | ボローニャ、 フェッラーラ | ラヴェンナ リミニ チェゼーナ フォルリ… | ヴェローナ、 パドヴァ… | ヴェネツィア | フリウリ、 V・ジューリア | トレンティーノ | ルッカ | フィレンツェ、 シエーナ、マッサ、 ピーサ(1510〜) ピオンビーノ(〜1509) | ピーサ (〜1509) ピオンビーノ (1510〜) | ローマ (教皇庁、ラツィオ) | ウルビーノ ペルージャ、 スポレート | ベネヴェント、 カープア | サレルノ | カラーブリア バジリカータ プーリア アブルッツォ モリーゼ | アマルフィ | ナーポリ | |||||||
476 | (〜454年 ヴァンダル王国) | オドアクレ、西ローマ帝国を滅亡させイタリア王に。首都はラヴェンナ | 西ローマ帝国の首都ラヴェンナ陥落 | (〜431年、ヴァンダル王国) | 476 | ||||||||||||||||||||||||
489 | 東ゴート族のテオドリーコ[Teodorico](テオドリック)が侵攻 8月28日 イゾンツォの戦い | 489 | |||||||||||||||||||||||||||
493 | 3月5日 テオドリーコ、ラヴェンナに無血入城 3月15日 テオドリーコがオドアクレをラヴェンナで殺害、イタリア王を名乗る。東ゴート王国[Regno degli Ostrogoti]が事実上イタリアに成立する | 493 | |||||||||||||||||||||||||||
497 | テオドリーコ。東ローマ皇帝アナシタシウスに地位を認められる | 497 | |||||||||||||||||||||||||||
501 | 501 | ||||||||||||||||||||||||||||
526 | 8月30日 テオドリーコ死去 アタラリーコ[Atalarico]が後継。テオドリーコの娘アマラスンタ[Amalasunta]が摂政に | 526 | |||||||||||||||||||||||||||
527 | 東ローマ帝国皇帝にユスティニアヌス1世が即位 | 527 | |||||||||||||||||||||||||||
534 | 10月2日 アタラリーコ病死 アタラリーコの摂政アマラスンタがテオダート[Teodato]を協治王に 年末 アマラスンタ失脚。ボルセーナ湖に幽閉される。 | コルシカ、東ローマ帝国領に | 534 | ||||||||||||||||||||||||||
535 | 4月30日 アマラスンタ、暗殺される。 | 東ローマ帝国将軍ベリサーリオ[Belisario](ベリサリオス)、シチリア島を攻撃。ゴート戦争の始まり 12月31日 ベリサーリオ、シラクーザ入城 | 535 | ||||||||||||||||||||||||||
536 | 12月 テオダート殺害される 東ゴート王に将軍ヴィティージェ[Vitige] | ベリサーリオ、ナーポリ征服 | ベリサーリオ、シチリア征服 ベリサーリオ、カルタゴの反乱鎮圧へ | 536 | |||||||||||||||||||||||||
540 | ベリサーリオ、ラヴェンナに無血入城しヴィティージェを捕虜に。 イルディバード[Ildibado/Ildebaldo]が東ゴート王に | 540 | |||||||||||||||||||||||||||
541 | イルディバード殺害 6月 エラリーコが東ゴート王に。陰謀により殺害。 トーティラ[Totila]が東ゴート王に | 541 | |||||||||||||||||||||||||||
542 | ヴィティージェ、コスタンティノーポリで死去。 | 542 | |||||||||||||||||||||||||||
549 | トーティラがコルシカを征服 | 549 | |||||||||||||||||||||||||||
550 | トーティラ、ローマ占領 | 550 | |||||||||||||||||||||||||||
552 | トーティラがナルセス(ナルセーテ)率いる東ローマ軍との戦闘で戦死。 テーイア[Teia]が東ゴート王に。 | 東ローマ帝国将軍ナルセーテがコルシカ奪回 | 552 | ||||||||||||||||||||||||||
553 | テーイア、モンテ・ラッターリ[Monte Lattari]の戦いでナルセーテ[Narsete]将軍率いる東ローマ軍に敗れ死亡。 東ゴート王国滅亡 | 553 | |||||||||||||||||||||||||||
554 | 東ローマ帝国、東ゴート王国の残党を制圧。イタリア全土を領域に。 イタリア総督にはナルセーテ。総督府はラヴェンナ | 554 | |||||||||||||||||||||||||||
568 | ランゴバルド族(ロンゴバルド)が侵攻 | フラヴィオ・ロンジーノ[Flavio Longino]がラヴェンナ総督[esarca]に。 | 568 | ||||||||||||||||||||||||||
569 | ロンゴバルド王アルボイーノ[Alboino]、ミラーノを占領 | (半島先端部は東ローマ帝国) | 569 | ||||||||||||||||||||||||||
570 | トゥーシャ公国[Ducato di Tuscia]が成立(-770)。首都はルッカ | ベネヴェント公国[Ducato di Benevento]が成立。 ベネヴェント公ゾットーネ[Zottone]即位。 | 570 | ||||||||||||||||||||||||||
571 | ロンゴバルド王国パヴィーアを首都に | スポレート公国[Ducato di Spoleto]成立 ファロアルド1世が即位 | 571 | ||||||||||||||||||||||||||
572 | アルボイーノ、イタリア王を宣言。 6月28日 アルボイーノがヴェローナで殺害され 息子のクレーフィ[Clefi]が王に | 572 | |||||||||||||||||||||||||||
573 | バドゥアーリオ[Baduario]がラヴェンナ総督に | 573 | |||||||||||||||||||||||||||
576 | デーチオ[Decio]がラヴェンナ総督に | 576 | |||||||||||||||||||||||||||
579 | 11月26日 教皇ペラージョ2世[Peragio II]即位 | 579 | |||||||||||||||||||||||||||
574 | クレーフィ殺害、その後王位は空位 | 574 | |||||||||||||||||||||||||||
584 | クレーフィの息子アウタリ[Autari]が王に | 584 | |||||||||||||||||||||||||||
585 | ズマラグド[Smaragdo]がラヴェンナ総督に | 585 | |||||||||||||||||||||||||||
589 | ロマーノ[Romano]がラヴェンナ総督に | 589 | |||||||||||||||||||||||||||
590 | 2月7日 教皇ペラージョ2世死去 9月3日 教皇グレゴリオ1世即位 | 590 | |||||||||||||||||||||||||||
591 | ロンゴバルド王にアジルルフォ[Agilulfo] | 591 | |||||||||||||||||||||||||||
594 | アレーキ1世[Arechi I]、ベネヴェント公に即位 | 594 | |||||||||||||||||||||||||||
601 | 601 | ||||||||||||||||||||||||||||
604 | 3月12日 教皇グレゴリオ1世死去 9月13日 教皇サビニアーノ[Sabiniano]即位 | 604 | |||||||||||||||||||||||||||
606 | 2月22日 教皇サビニアーノ死去 | 606 | |||||||||||||||||||||||||||
607 | 2月19日 教皇ボニファーチョ3世[Bonifacio III]即位 11月12日死去 | 607 | |||||||||||||||||||||||||||
608 | 8月25日 教皇ボニファーチョ4世即位 | 608 | |||||||||||||||||||||||||||
615 | 5月8日 教皇ボニファーチョ4世死去 10月19日 教皇アデオダート1世[Adeodato I](別名デウスデディト[Deusdedit])即位 | 615 | |||||||||||||||||||||||||||
616 | アダロアルド[Adaloaldo]、ロンゴバルド王に | 616 | |||||||||||||||||||||||||||
618 | 11月8日 教皇アデオダート死去 | 618 | |||||||||||||||||||||||||||
619 | 12月23日 教皇ボニファーチョ5世即位 | 619 | |||||||||||||||||||||||||||
625 | アリオヴァルド[Ariovaldo](アリオアルド[Arioaldo])、ロンゴバルド王に | 10月25日 ボニファーチョ5世死去 10月27日 オノーリオ1世[Onorio I]即位 | 625 | ||||||||||||||||||||||||||
636 | ロータリ[Rotari]、ロンゴバルド王に | 636 | |||||||||||||||||||||||||||
638 | 10月12日 オノーリオ1世死去、セヴェリーノ[Severino]が次期教皇に選出される | 638 | |||||||||||||||||||||||||||
640 | 5月28日 教皇セヴェリーノ即位 8月2日 教皇セヴェリーノ死去 12月24日 教皇ジョヴァンニ4世[Giovanni IV]即位 | アレーキ1世死去 | 640 | ||||||||||||||||||||||||||
641 | アイオーネ1世[Aione I]がベネヴェント公に | 641 | |||||||||||||||||||||||||||
642 | 10月12日 教皇ジョヴァンニ4世死去 11月24日 教皇テオドーロ1世[Teodoro I]即位 | ロドアルド[Rodoaldo]がベネヴェント公に | 642 | ||||||||||||||||||||||||||
645 | サレルノを取得 | 645 | |||||||||||||||||||||||||||
647 | グリモアルド1世[Grimoaldo I]、ベネヴェント公に | 647 | |||||||||||||||||||||||||||
649 | 5月14日 教皇テオドーロ1世死去 7月 教皇マルティーノ1世[Martino I]即位 | 649 | |||||||||||||||||||||||||||
652 | ロータリ死去。ロドアルド[Rodoaldo]ロンゴバルド王に | 652 | |||||||||||||||||||||||||||
653 | アリベルト[Ariberto]、ロンゴバルド王に | 653 | |||||||||||||||||||||||||||
654 | 8月10日 マルティーノ1世が廃位され、教皇エウジェーニオ1世[Eugenio I]が即位 | 654 | |||||||||||||||||||||||||||
655 | 9月16日 元教皇マルティーノ1世死去 | 655 | |||||||||||||||||||||||||||
657 | 6月2日 教皇エウジェーニオ1世死去 7月30日 教皇ヴィタリアーノ[Vitaliano]即位 | 657 | |||||||||||||||||||||||||||
661 | ゴデベルト[Godeberto]、ロンゴバルド王に | ナーポリ公区となる。 ナーポリ公はバシリオ[Basilio] | 661 | ||||||||||||||||||||||||||
662 | ベネヴェント公グリモアルド、ロンゴバルド王に | ロムアルド1世[Romualdo I]、ベネヴェント公に | 662 | ||||||||||||||||||||||||||
663 | 5月8日 シポントの戦い | 663 | |||||||||||||||||||||||||||
671 | ガリバルド[Garibaldo]、ロンゴバルド王に ペルタリド[Pertarido]、ロンゴバルド王に | 671 | |||||||||||||||||||||||||||
672 | 2月27日 教皇ヴィタリアーノ死去 4月11日 教皇アデオダート2世即位 | 672 | |||||||||||||||||||||||||||
676 | 6月17日 教皇アデオダート2世死去 11月2日 教皇ドーノ[Dono]選出 | 676 | |||||||||||||||||||||||||||
677 | 677 | ||||||||||||||||||||||||||||
678 | 4月11日 教皇ドーノ死去 6月26日 教皇アガトーネ[Agatone]選出 | 678 | |||||||||||||||||||||||||||
681 | 1月10日 教皇アガトーネ死去 | 681 | |||||||||||||||||||||||||||
682 | 8月17日 教皇レオーネ2世[Leone II]選出 | 682 | |||||||||||||||||||||||||||
683 | 7月3日 教皇レオーネ2世死去 | 683 | |||||||||||||||||||||||||||
684 | 7月26日 教皇ベネデット2世[Benedetto II]選出 | 684 | |||||||||||||||||||||||||||
685 | 5月8日 教皇ベネデット2世死去 7月23日 教皇ジョヴァンニ5世選出 | 685 | |||||||||||||||||||||||||||
686 | クニベルト[Cuniberto il Pio]、ロンゴバルド王に | 8月2日 教皇ジョヴァンニ5世死去 10月21日 教皇コノーネ選出 | ベネヴェント公にグリモアルド2世 | 686 | |||||||||||||||||||||||||
687 | 6月21日 教皇コノーネ5世死去 12月15日 教皇セルジョ1世選出 対立教皇にパスクアーレ、テオドーロ2世が選出された。 | 687 | |||||||||||||||||||||||||||
689 | ベネヴェント公にグリモアルド2世の弟ジスルフォ1世 | 689 | |||||||||||||||||||||||||||
697 | 初代ドージェ[doge](総督)、パウリチオ・アナフェスト[Paulicio Anafesto]就任 | 697 | |||||||||||||||||||||||||||
700 | リウトベルト[Liutberto]、ロンゴバルド王に | 700 | |||||||||||||||||||||||||||
701 | 9月8日 教皇セルジョ1世死去 10月30日 教皇ジョヴァンニ6世選出 | 701 | |||||||||||||||||||||||||||
702 | アリベルト2世、ロンゴバルド王に | 702 | |||||||||||||||||||||||||||
705 | 1月11日 教皇ジョヴァンニ6世死去 3月1日 教皇ジョヴァンニ7世選出 | 705 | |||||||||||||||||||||||||||
707 | 10月18日 教皇ジョヴァンニ7世死去 | 707 | |||||||||||||||||||||||||||
708 | 1月15日 教皇シシンニオ[Sisinnio]選出 2月4日 教皇死去 3月25日 教皇コスタンティーノ[Costantino]選出 | 708 | |||||||||||||||||||||||||||
712 | リウトプランド[Liutoprando]がロンゴバルド王に | 712 | |||||||||||||||||||||||||||
715 | 4月19日 教皇コスタンティーノ死去 5月19日 教皇グレゴリオ2世選出 | 715 | |||||||||||||||||||||||||||
717 | 第2代ドージェにマルチェッロ・テガッリアーノ[Marcello Tegalliano] | 717 | |||||||||||||||||||||||||||
718 | 718 | ||||||||||||||||||||||||||||
720 | サルデーニャ、サラセン人に占領される | 720 | |||||||||||||||||||||||||||
725 | 725年頃 コルシカ、ロンゴバルドのピーサに征服される | 725 | |||||||||||||||||||||||||||
726 | オルソ・イパート[Orso Ipato]第3代ドージェ就任 | 726 | |||||||||||||||||||||||||||
730 | ロンゴバルド、ピーサを取得 | 730 | |||||||||||||||||||||||||||
731 | 2月10日 教皇グレゴリオ2世死去 3月18日 教皇グレゴリオ3世選出 | 731 | |||||||||||||||||||||||||||
741 | 11月28日 教皇グレゴリオ3世死去 12月10日 教皇ザッカリーア[Zaccaria]選出 | 741 | |||||||||||||||||||||||||||
742 | 第4代ドージェ、ディオダート(Diodato) | 742 | |||||||||||||||||||||||||||
744 | イルデブランド[Ildebrando]、がロンゴバルド王に ラーキ[Rachi](またはラーキス[Rachis])がロンゴバルド王に | 744 | |||||||||||||||||||||||||||
749 | アストルフォ[Astolfo]がロンゴバルド王に | ジズルフォ2世がベネヴェント公に | 749 | ||||||||||||||||||||||||||
751 | ラヴェンナがロンゴバルドのアストルフォに征服される | ナーポリ、東ローマ帝国ナーポリ公区からロンゴバルド系のナーポリ公国に | 751 | ||||||||||||||||||||||||||
752 | 3月22日 教皇ザッカリーア死去 3月24日 教皇ステーファノ2世選出されるも死去 3月26日 新たに教皇ステーファノ3世(2世とも)が選出される | スポレート公にジズルフォ2世[Gislfo II] | 752 | ||||||||||||||||||||||||||
755 | 第5代ドージェ、ガウロ・ガッラ[Gaulo Galla] | ステーファノ2世がナーポリ公に | 教皇に寄進 | 755 | |||||||||||||||||||||||||
756 | ロンゴバルド王アストルフォ死去 ラーキが再び王に。トゥスチア公デジデーリオ[Desiderio]が奪いロンゴバルド王に | ラヴェンナ教皇領に | 第6代ドージェ、ドメーニコ・モネガーリオ[Domenico Monegario] | 756 | |||||||||||||||||||||||||
757 | 4月26日 教皇ステーファノ3世死去 5月29日 ステーファノ3世と兄弟の教皇パオロ1世[Paolo I]即位 | 757 | |||||||||||||||||||||||||||
759 | アデルキ[Adelchi]がロンゴバルド王に | 759 | |||||||||||||||||||||||||||
764 | 第7代ドージェ、マウリツィオ・ガルバイオ[Maurizio Galbaio] | 764 | |||||||||||||||||||||||||||
766 | グレゴリオ2世がナーポリ公に | 766 | |||||||||||||||||||||||||||
767 | 6月28日 教皇パオロ1世死去 7月5日 対立教皇コスタンティーノ2世選出 | 767 | |||||||||||||||||||||||||||
768 | 7月31日 対立教皇フィリッポ[Filippo]選出 8月6日 対立教皇廃位 8月7日 教皇ステーファノ4世(3世)即位 | 768 | |||||||||||||||||||||||||||
770 | トゥーシャ公国、フランク侵入により滅亡 | 770 | |||||||||||||||||||||||||||
772 | 2月3日 教皇ステーファノ4世死去 2月9日 教皇アドリアーノ1世[Adriano I]即位 | 772 | |||||||||||||||||||||||||||
773 | 教皇アドリアーノ1世、フランク族のピピンを呼ぶ | 773 | |||||||||||||||||||||||||||
774 | ロンゴバルド王国、フランク王ピピンの息子カルロ・マーニョ[Carlo Magno](カール大帝)に征服される 6月5日 カルロ・マーニョ、ロンゴバルド王に ロンゴバルド王デジデーリオ、パヴィーアに捕われる | ベネヴェント公国[Principato di Benevento]となる | 774 | ||||||||||||||||||||||||||
781 | カルロマーニョの次男ピピーノ[Pipino](ピピン)、イタリア王に(〜810) | 781 | |||||||||||||||||||||||||||
787 | カルロ・マーニョ、ベネヴェント公国を属国に | 第8代ドージェ、ジョヴァンニ・ガルバイオ[Giovanni Galbaio], | 787 | ||||||||||||||||||||||||||
794 | テオフィラット[Teofilatto]がナーポリ公に | 794 | |||||||||||||||||||||||||||
795 | 12月25日 教皇アドリアーノ1世死去 12月27日 教皇レオーネ3世選出 | 795 | |||||||||||||||||||||||||||
800 | 12月25日 教皇レオーネ3世がローマ皇帝をカルロ・マーニョに戴冠。西欧にローマ帝国(フランク帝国)が成立し北イタリアはその一部となる。 | 800 | |||||||||||||||||||||||||||
801 | アンティモ[Antimo]がナーポリ公に | 801 | |||||||||||||||||||||||||||
810 | 7月8日 イタリア王ピピーノ死去 | 801 | |||||||||||||||||||||||||||
812 | トスカーナ侯国[Marchesato di Toscana]成立 ボニファチオ1世[Bonifacio I]がトスカーナ侯(ルッカ伯/公)に | 812 | |||||||||||||||||||||||||||
813 | ピピーノの息子ベルナルド[Bernardo]、イタリア王に(〜817) | 813 | |||||||||||||||||||||||||||
814 | 1月28日 カルロ・マーニョ死去、皇帝は息子のルドヴィーコ1世[Ludovico I il Pio]に。 | 814 | |||||||||||||||||||||||||||
816 | 6月12日 レオーネ3世死去 6月22日 教皇ステーファノ5世(4世)選出 | 816 | |||||||||||||||||||||||||||
817 | 1月24日 教皇ステーファノ5世死去 1月25日 教皇パスクアーレ1世選出 | 817 | |||||||||||||||||||||||||||
818 | ルドヴィーコ1世の長子ロターリオ1世イタリア王に | ナーポリ公ステーファノ3世 | 818 | ||||||||||||||||||||||||||
824 | 教皇エウジェニオ2世即位 | 824 | |||||||||||||||||||||||||||
828 | ヴェネツィア、聖マルコの遺体を取得 | 828 | |||||||||||||||||||||||||||
831 | イスラムによりパレルモ陥落 | 831 | |||||||||||||||||||||||||||
838 | ロンゴバルドによるアマルフィ占領 | 838 | |||||||||||||||||||||||||||
839 | ベネヴェント公シカルド暗殺される | アマルフィ公国成立 | 839 | ||||||||||||||||||||||||||
840 | 6月20日ルドヴィーコ1世死去 ロターリオ1世、ローマ帝国皇帝に。 | ランドルフォ1世[Landolfo I]、カープア伯に ラデルキとシコヌルフォが対立しベネヴェント公に | セルジョ1世がナーポリ公に | 840 | |||||||||||||||||||||||||
842 | ランドーネ[Landone]、カープア公[Principe]に | 841 | |||||||||||||||||||||||||||
843 | イスラムによりメッシーナ陥落 | ヴェルダン条約によりローマ帝国(フランク帝国)の分割 | 843 | ||||||||||||||||||||||||||
846 | ルッカ伯ボニファーチョ2世の子アダルベルト1世トスカーナ侯に | 846 | |||||||||||||||||||||||||||
849 | サレルノ公国成立 | 849 | |||||||||||||||||||||||||||
855 | ロターリオ1世死去、息子のルドヴィーコ2世、イタリア王に | 855 | |||||||||||||||||||||||||||
874 | ベレンガーリオ、フリウリ公に | 874 | |||||||||||||||||||||||||||
875 | 8月25日 ルドヴィーコ2世死去。カルロ2世[Carlo il Carvo]がローマ皇帝に。 | 875 | |||||||||||||||||||||||||||
877 | 10月6日 カルロ2世死去。 ルドヴィーコ1世の息子カルロマンノ[Carlomanno]、イタリア王に | 877 | |||||||||||||||||||||||||||
878 | イスラムによりシラクーザ陥落 | 878 | |||||||||||||||||||||||||||
879 | カルロ3世[Carlo III il Grosso]、ラヴェンナで戴冠しイタリア王に | グイード3世がスポレート公に | 879 | ||||||||||||||||||||||||||
881 | カルロ3世、ローマで戴冠し皇帝に | 881 | |||||||||||||||||||||||||||
888 | フリウリ公ベレンガーリオ[Berengario]1世、イタリア王に | 888 | |||||||||||||||||||||||||||
889 | ベレンガーリオ1世、パヴィーアの戦いで負ける 2月 スポレート公グイード・ディ・スポレート[Guido di Spoleto]がイタリア王に | アダルベルト2世(1世の子)、トスカーナ侯に | 889 | ||||||||||||||||||||||||||
891 | イタリア王グイードが皇帝に。 息子のランベルトがイタリア王に | 10月6日 教皇フォルモーゾ選出 | 891 | ||||||||||||||||||||||||||
894 | 皇帝グイード死去 | スポレート公グイード3世(皇帝)死去、息子のイタリア王ランベルトがスポレート公ランベルト2世に | 894 | ||||||||||||||||||||||||||
896 | ランベルト皇帝に | 4月4日 教皇フォルモーゾ死去 4月 ボニファーチョ6世選出 4月19日 教皇死去 5月 教皇ステーファノ7世(6世)選出 | 896 | ||||||||||||||||||||||||||
897 | 7月 ステーファノ7世廃位 絞殺 8月 教皇ロマーノ[Romano]選出 11月 教皇死去 11月 教皇テオドーロ2世選出20日後死去 | アルベリコ[Alberico]がスポレート公に | 897 | ||||||||||||||||||||||||||
898 | 10月15日ランベルト2世死去 | 898 | |||||||||||||||||||||||||||
900 | ルドヴィーコ3世がイタリア王に | カプア伯領を合わせカプア=ベネヴェント侯国に | 900 | ||||||||||||||||||||||||||
901 | 10世紀頃 ピーサ、自由都市に | 901 | |||||||||||||||||||||||||||
902 | タオルミーナ、イスラムに降伏 | 902 | |||||||||||||||||||||||||||
903 | シチリア全島イスラムに征服される | 903 | |||||||||||||||||||||||||||
905 | ルドヴィーコ3世、ベレンガーリオに負ける | 905 | |||||||||||||||||||||||||||
909 | シチリア総督にアリー | 909 | |||||||||||||||||||||||||||
911 | 教皇アナスターシオ3世即位 | 911 | |||||||||||||||||||||||||||
915 | ベレンガーリオ1世、皇帝に | ガエータ、ガリニャーノの戦いでサラセン人に勝利 | 915 | ||||||||||||||||||||||||||
923 | ベレンガーリオ1世、ロドルフォ[Rodolfo di Borgogna]に負ける。 | 923 | |||||||||||||||||||||||||||
924 | ロドルフォ、イタリア王に。 謀反のため皇帝ベレンガーリオ1世、ヴェローナにて死去 マジャール人イタリア王国の首都パヴィーアを攻撃 | 924 | |||||||||||||||||||||||||||
926 | ロドルフォ退位し、プロヴァンス伯ウーゴ[Ugo di Provenza]がイタリア王に。 | 926 | |||||||||||||||||||||||||||
930 | ピサ、トゥーシャの中心に | 930 | |||||||||||||||||||||||||||
931 | 2月 教皇ステーファノ8世死去 3月 ジョヴァンニ11世が教皇に | 931 | |||||||||||||||||||||||||||
935 | 1月 教皇ジョヴァンニ11世死去 | 935 | |||||||||||||||||||||||||||
936 | 1月3日 教皇レオーネ7世が選出 | 936 | |||||||||||||||||||||||||||
939 | 第20代ドージェにピエトロ・バドエル[Pietro Badoer] | 939 | |||||||||||||||||||||||||||
942 | 第21代ドージェにピエトロ・カンディアーノ3世[Pietro III Candiano] | 942 | |||||||||||||||||||||||||||
945 | ウーゴが退位し、息子ロターリオ2世がイタリア王に | 945 | |||||||||||||||||||||||||||
948 | トリエステ独立 | 948 | |||||||||||||||||||||||||||
950 | ベレンガーリオ2世、イタリア王に | 950 | |||||||||||||||||||||||||||
951 | オットーネ1世とロターリオ2世の未亡人アデライデ[Adelaide di Borgogna]が結婚 | 950 | |||||||||||||||||||||||||||
958 | ベレンガーリオ2世から、ジェノヴァに特許状が出る | 958 | |||||||||||||||||||||||||||
961 | カープア、ベネヴェント公[Principe]にパンドルフォ1世が即位 | 961 | |||||||||||||||||||||||||||
962 | オットーネ1世[Ottone I]がローマ皇帝に。イタリアは事実上、ローマ帝国領(後の神聖ローマ帝国)に | オットーネ1世、フィレンツェを統治 | 2月2日 ローマ皇帝オットーネ1世、ローマで戴冠 | 962 | |||||||||||||||||||||||||
967 | アレラーモ[Aleramo]、モンフェッラート候国を建国 | オットーネ1世の息子オットーネ2世がローマ皇帝に | 967 | ||||||||||||||||||||||||||
973 | オットーネ1世死去 | 973 | |||||||||||||||||||||||||||
978 | パンドルフォ、サレルノ皇子に | 978 | |||||||||||||||||||||||||||
982 | ベネヴェントとカープアが分離 | 982 | |||||||||||||||||||||||||||
983 | 12月7日 オットーネ2世死去、息子のオットーネ3世がローマ皇帝に | 983 | |||||||||||||||||||||||||||
1001 | 1001 | ||||||||||||||||||||||||||||
1002 | 1月24日 オットーネ3世死去 2月15日 イヴレーア侯アルドゥイーノ[Arduino]がイタリア王に | 1002 | |||||||||||||||||||||||||||
1003 | ピサ、ルッカに勝利 | 1003 | |||||||||||||||||||||||||||
1014 | アルドゥイーノを破りドイツ王ハインリヒ世がイタリア王エンリーコ2世(ローマ皇帝も)に | 1014 | |||||||||||||||||||||||||||
1016 | カープア公パンドルフォ2世即位 | 1016 | |||||||||||||||||||||||||||
1017 | サルデーニャ、ピサに | 1017 | |||||||||||||||||||||||||||
1021 | サルデーニャ、サラセン人に | 1021 | |||||||||||||||||||||||||||
1022 | 皇帝エンリーコ2世、カープア公パンドルフォ2世を廃位し、テアーノ伯パンドルフォを3世に即位 | 1022 | |||||||||||||||||||||||||||
1024 | 7月13日 皇帝エンリーコ2世死去 | 1024 | |||||||||||||||||||||||||||
1027 | ローマ皇帝コッラード2世[Corrado I]即位(ドイツ王コンラート2世[Konrad II]) | トレント司教公国[principato vescovile]に | カノッサ公の息子ボニファチオ3世(982-1052)、トスカーナの領主に | グアイマロ5世[Guaimarmo V]サレルノ公即位 | 1027 | ||||||||||||||||||||||||
1037 | ナーポリ公セルジョ7世死亡 | 1030 | |||||||||||||||||||||||||||
1039 | 皇帝エンリーコ3世が即位 | 1039 | |||||||||||||||||||||||||||
1043 | サヴォイア領主ウンベルト・ビアンカマーノ、アオスタ伯に | プーリア伯にグリエルモ1世 | 1043 | ||||||||||||||||||||||||||
1047 | サヴォイア領主アメデーオ1世、サヴォイア伯に | 1月 皇帝エンリーコ3世と教皇がカープア訪問 | 1047 | ||||||||||||||||||||||||||
1048 | 皇帝の従兄弟が教皇レオーネ9世として即位 | 1047 | |||||||||||||||||||||||||||
1051 | アルタヴィッラ家のウンベルトがプッリャ伯に | 1051 | |||||||||||||||||||||||||||
1052 | トスカーナ侯ボニファチオ3世、領民に殺害される。 | 6月 グアイマロ5世暗殺 義理の兄弟のパンドルフォがサレルノ公に グアイマロの息子ジズルフォ2世がサレルノ公に | 1052 | ||||||||||||||||||||||||||
1053 | 6月18日 教皇軍とノルマン諸国がチヴィターテの戦い | 1053 | |||||||||||||||||||||||||||
1054 | カトリックとギリシャ教会分裂 | 1054 | |||||||||||||||||||||||||||
1055 | 1055 | ||||||||||||||||||||||||||||
1056 | ローマ皇帝エンリーコ4世即位 | 1056 | |||||||||||||||||||||||||||
1057 | 8月 ロベルト・グイスカルド・ダルタヴィッラ[Roberto il Guiscardo]がプッリャ伯に | 1057 | |||||||||||||||||||||||||||
1059 | ロベルト・グイスガルド、プーリア公に | 1059 | |||||||||||||||||||||||||||
1060 | サヴォイア伯オッドーネ1世ピエモンテへ | 1月24日 教皇ニッコロ2世選出 | ルッジェーロにより、レッジョ陥落 | 1060 | |||||||||||||||||||||||||
1061 | ルッジェーロにより、メッシーナ陥落 | 1061 | |||||||||||||||||||||||||||
1068 | コルシカ、フランス領に | 1068 | |||||||||||||||||||||||||||
1071 | ロベルト・グイスカルドによりバーリ陥落 | ルッジェーロにより、カターニャ陥落 | 1071 | ||||||||||||||||||||||||||
1072 | ルッジェーロ1世パレルモを征服し、シチリア伯に。 | 1072 | |||||||||||||||||||||||||||
1073 | 4月21日 ローマ教皇アレッサンドロ2世死去 イルデブランド・アルドブランデスキ[Ildebrando Aldobrandeschi]が教皇グレゴリオ7世に | ロベルト・グイスカルドがアマルフィ公国征服 11月 グイスカルド、アマルフィ公に | 1073 | ||||||||||||||||||||||||||
1076 | ロベルト・グイスカルドがベネヴェント侯国征服 | 12月13日 グイスカルドがサレルノ占領 | 1076 | ||||||||||||||||||||||||||
1077 | 皇帝エンリーコ4世が、グレゴリオ7世に対してカノッサの屈辱を受ける | 11月18日 ベネヴェント公ランドルフォ6世が死去 ベネヴェント教皇領に | ロベルト・グイスカルドがサレルノ侯国征服 | コルシカ、ピサ領に | 1077 | ||||||||||||||||||||||||
1081 | ピーサ、自由コムーネになる | 1081 | |||||||||||||||||||||||||||
1083 | 皇帝エンリーコ4世、イタリア遠征 | 1083 | |||||||||||||||||||||||||||
1084 | 皇帝エンリーコ4世、ローマに入城し教皇グレゴリオ7世を廃位し幽閉。対立教皇クレメンテ3世が即位。 ロベルト・グイスカルドが元教皇を救出。 | 1084 | |||||||||||||||||||||||||||
1085 | 5月25日 グレゴリオ7世死去 | 7月17日 ロベルト・グイスカルドが遠征先で病死、息子のルッジェーロ・ボルサ[Ruggero Borsa]がプッリャ。カラーブリア公に | 1085 | ||||||||||||||||||||||||||
1086 | 5月24日 モンテカッシーノ修道院長デジデリオ・ダ・モンテカッシーノが教皇ヴィットーレ3世として即位 | 1086 | |||||||||||||||||||||||||||
1087 | 9月16日 教皇ヴィットーレ3世、モンテカッシーノで死去 | 1087 | |||||||||||||||||||||||||||
1088 | 3月21日 教皇ウルバーノ2世選出 | 1088 | |||||||||||||||||||||||||||
1091 | タンクレーディの息子ルッジェーロ1世シチリアを征服 | 1091 | |||||||||||||||||||||||||||
1097 | ミラーノ自由都市に | 1097 | |||||||||||||||||||||||||||
1098 | クレモーナ自由都市に | 1098 | |||||||||||||||||||||||||||
1101 | ルッジェーロ1世死去、息子のシモーネが継承 | 1101 | |||||||||||||||||||||||||||
1105 | ルッジェーロ1世の息子ルッジェーロ2世、カラーブリア公を継承 | シモーネ死去、弟のルッジェーロ2世が継承 | 1105 | ||||||||||||||||||||||||||
1106 | ローマ皇帝エンリーコ5世即位 | 1106 | |||||||||||||||||||||||||||
1111 | ルッジェーロ・ボルサ死去、グリエルモがプッリャ公に。 | 1111 | |||||||||||||||||||||||||||
1113 | ルッジェーロ2世シチリア伯に。 | 1113 | |||||||||||||||||||||||||||
1114 | ボローニャが自由都市になる | 1114 | |||||||||||||||||||||||||||
1115 | トスカーナ侯マティルデ[Matilde di Canossa]死去 | 1115 | |||||||||||||||||||||||||||
1118 | ルッカが自由コムーネになる | 1118 | |||||||||||||||||||||||||||
1122 | セルジョ7世ナーポリ公に | 1122 | |||||||||||||||||||||||||||
1125 | ロターリオ3世がイタリア王に | 1125 | |||||||||||||||||||||||||||
1126 | ピアチェンツァ自由都市になる | 1126 | |||||||||||||||||||||||||||
1127 | グリエルモ死去、ルッジェーロ2世プッリャ公を継承 | 1127 | |||||||||||||||||||||||||||
1128 | イタリア王にコッラード3世 | 南イタリア、シチリアに併合 | 1128 | ||||||||||||||||||||||||||
1129 | アッシージ自由都市になる | 1129 | |||||||||||||||||||||||||||
1130 | サルッツォ侯国成立 | 2月23日 教皇インノチェンツォ2世が選出される。 | ルッジェーロ2世、ナーポリ・シチリア王国建国 | 1130 | |||||||||||||||||||||||||
1131 | アマルフィがシチリア王国に併合される | 1131 | |||||||||||||||||||||||||||
1135 | コッラード3世、ローマ王に | 1135 | |||||||||||||||||||||||||||
1136 | ヴェローナ自由都市になる | 1136 | |||||||||||||||||||||||||||
1138 | パドヴァ自由都市になる | 対立教皇ヴィットーレ4世が選出 | 1138 | ||||||||||||||||||||||||||
1139 | 対立教皇ヴィットーレ4世廃位 | ナーポリ、ノルマン人に征服される。アルフォンソがナーポリ公に | 1139 | ||||||||||||||||||||||||||
1140 | ラニエーリの子グリエルモ5世モンフェッラート侯に | シチリア王ルッジェーロ2世、ナーポリ入城 | 1140 | ||||||||||||||||||||||||||
1144 | アブルッツォ、シチリア王国に併合 | 1144 | |||||||||||||||||||||||||||
1147 | シエーナ自由都市になる | 1147 | |||||||||||||||||||||||||||
1148 | オッドーネ、サヴォイア伯に | 第37代ドージェ、ドメーニコ・モロシーニ[Domenico Morosini] | 1148 | ||||||||||||||||||||||||||
1149 | パルマ自由都市になる | タンクレーディ、レッチェ伯に | 1149 | ||||||||||||||||||||||||||
1152 | 2月15日 イタリア王コッラード3世死去 | 1152 | |||||||||||||||||||||||||||
1154 | 2月26日 ルッジェーロ2世死去、息子グリエルモ1世シチリア王、プッリャ公に | 1154 | |||||||||||||||||||||||||||
1155 | バルバロッサ[Federico I Barbarossa]、イタリア王に | 1155 | |||||||||||||||||||||||||||
1159 | 対立教皇ヴィットーレ4世が選出される | 1159 | |||||||||||||||||||||||||||
1162 | バルバロッサ(フェデリーコ1世)、ミラーノ征服 | 1162 | |||||||||||||||||||||||||||
1164 | ヴェローナ、ヴィチェンツァ、パードヴァでヴェローナ同盟成立 | 1164 | |||||||||||||||||||||||||||
1166 | シチリア王グリエルモ1世死去 グリエルモ2世即位 | 1166 | |||||||||||||||||||||||||||
1167 | ブレッシャ、ベルガモ、マントヴァ、クレモーナでロンバルディーア同盟成立 ロンバルディーア同盟にヴェローナ同盟が合流 | マントヴァ、ロンバルディーア同盟に | ピアチェンツァ、ロンバルディーア同盟に | ヴェローナ同盟、ロンバルディーア同盟に合流 | 1167 | ||||||||||||||||||||||||
1168 | レッジョ、ロンバルディーア同盟に合流 | 1168 | |||||||||||||||||||||||||||
1171 | ヴェネツィア、6つのセスティエーレ(地区)に区分される | 1171 | |||||||||||||||||||||||||||
1172 | ヴェネツィア、大評議会が作れれる | 1172 | |||||||||||||||||||||||||||
1176 | ロンバルディーア同盟、レニャーノの戦いでバルバロッサに勝つ | 1176 | |||||||||||||||||||||||||||
1183 | コスタンツァの和 | 1183 | |||||||||||||||||||||||||||
1185 | フィレンツェ自治都市国家となる | 11月25日 教皇ウルバーノ3世選出 | 1185 | ||||||||||||||||||||||||||
1186 | ミラノにてバルバロッサの息子エンリーコが、シチリア王ルッジェーロ2世の娘コスタンツァと結婚 | 1186 | |||||||||||||||||||||||||||
1188 | コッラード[Corrado](1146?-1192/04/28)、モンフェッラート侯に | 1188 | |||||||||||||||||||||||||||
1189 | バルバロッサ、第3回十字軍に出発 | グリエルモ2世死去 レッチェ伯タンクレーディ(アルタヴィッラ家)がシチリア王即位 | 1189 | ||||||||||||||||||||||||||
1190 | 6月10日 バルバロッサ死去 息子のエンリーコがイタリア王に | ピーサ、ポデスタ制に | 1190 | ||||||||||||||||||||||||||
1192 | コッラードの弟ボニファチオ(1150?-1207)、モンフェッラート侯に | 1192 | |||||||||||||||||||||||||||
1194 | タンクレーディ死去 エンリーコ(ハインリッヒ6世)が王位奪取 | 1194 | |||||||||||||||||||||||||||
1196 | シチリア王国に。エンリーコがシチリア王 | 1196 | |||||||||||||||||||||||||||
1197 | 9月20日 エンリーコ病死 | 1197 | |||||||||||||||||||||||||||
1198 | 教皇インノチェンツォ3世即位 | スポレート教皇領に | 5月 エンリーコの息子フェデリーコがシチリア王フェデリーコ1世として即位 | 1198 | |||||||||||||||||||||||||
1201 | 1201 | ||||||||||||||||||||||||||||
1202 | 11月、第4次十字軍が出港し、ザーラ[Zara]を占領 | トリエステ、ヴェネツィア領に(〜1381) | 1202 | ||||||||||||||||||||||||||
1203 | 7月17日 十字軍、コンスタンティノーポリ攻略 | 1203 | |||||||||||||||||||||||||||
1207 | ボニファチオ1世の子グリエルモ6世、モンフェッラート侯に | 1207 | |||||||||||||||||||||||||||
1212 | 12月9日 フェデリーコ、ドイツでドイツ王戴冠 | 1212 | |||||||||||||||||||||||||||
1213 | ウルビーノ、モンフェッラート領に | 1213 | |||||||||||||||||||||||||||
1216 | 7月16日 教皇インノチェンツォ3世死去 7月18日 オノーリオ3世即位 | 1216 | |||||||||||||||||||||||||||
1220 | 11月 シチリア王フェデリーコ1世がローマ皇帝フェデリーコ2世に即位 | 11月 フェデリーコ、ローマで戴冠しローマ皇帝フェデリーコ2世に | フェデリーコ、ドイツから戻る | 1220 | |||||||||||||||||||||||||
1221 | ピーサ、フィレンツェと戦闘 | 1221 | |||||||||||||||||||||||||||
1224 | フェデリーコ、ナポリ大学を創設 | 1224 | |||||||||||||||||||||||||||
1226 | トリーノ、ロンバルディーア同盟に加盟 | 1226 | |||||||||||||||||||||||||||
1227 | 3月18日 教皇オノーリオ3世死去 | 1227 | |||||||||||||||||||||||||||
1228 | シチリア王フェデリーコ1世エルサレム王に | 1228 | |||||||||||||||||||||||||||
1229 | シエナ戦争始まる | 1229 | |||||||||||||||||||||||||||
1230 | クーネオ自由都市に | 1230 | |||||||||||||||||||||||||||
1232 | エッツェリーノ3世[Ezzelino III da Romano]、ヴェローナとバッサーノを取得 | 1232 | |||||||||||||||||||||||||||
1235 | シエナ戦争終わる | 1235 | |||||||||||||||||||||||||||
1236 | エッツェリーノ3世、ヴィチェンツァを取得 | 1236 | |||||||||||||||||||||||||||
1237 | エッツェリーノ3世、パドヴァ、トレヴィーゾを取得 | 1237 | |||||||||||||||||||||||||||
1250 | 12月13日 ローマ皇帝フェデリーコ2世死去 | 12月13日 シチリア王フェデリーコ1世[SRI F.2]死去 | 1250 | ||||||||||||||||||||||||||
1251 | フェデリーコ2世の息子コッラード[Corrado IV di Svevia](ドイツ王コンラート4世)がシチリア王コッラードとして即位 | 1251 | |||||||||||||||||||||||||||
1252 | ナーポリで自由都市宣言 | 1252 | |||||||||||||||||||||||||||
1253 | ボニファチオ2世の子グリエルモ7世、モンフェッラート侯に | ジョベルト・ダ・ジェンテがパルマの領主に(〜1259) | コッラード、ナーポリ占領 | 1253 | |||||||||||||||||||||||||
1254 | インノチェンツォ4世死去 教皇アレッサンドロ4世即位 | 5月21日 コッラード死去 | 1254 | ||||||||||||||||||||||||||
1258 | シチリア王にコッラードの異母兄弟マンフレーディ即位 | 1258 | |||||||||||||||||||||||||||
1259 | マルティーノ・デッラ・トッレ[Martino della Torre]、ミラーノの領主に | 1259 | |||||||||||||||||||||||||||
1261 | 8月29日 教皇ウルバーノ4世即位 | 1261 | |||||||||||||||||||||||||||
1262 | オットーネ・ヴィスコンティ[Ottone Visconti]がミラーノ大司教に | 1262 | |||||||||||||||||||||||||||
1264 | 教皇ウルバーノ死去 | 1264 | |||||||||||||||||||||||||||
1266 | 2月26日 シャルル・ダンジューがマンフレーディを破りカルロ1世としてシチリア王に即位 | 1266 | |||||||||||||||||||||||||||
1267 | エステ家フェッラーラの領主に | 1267 | |||||||||||||||||||||||||||
1268 | ロレンツォ・ティエーポロ[Lorenzo Tiepolo]が、第46代ドージェに就任 | 8月23日 カルロ・ダンジョ、タリアコッツォ[Tagliacozzo]の戦いでコッラディーノを破る。 10月29日 カルロ、コッラディーノを処刑し単独シチリア王に | 1268 | ||||||||||||||||||||||||||
1271 | マルコ・ポーロが東方に旅立つ | カルロ・ダンジョの息子カルロ2世がサレルノ公[Principe]に | 1271 | ||||||||||||||||||||||||||
1272 | Bresse、サヴォイア領に | ボナコルシ家、マントヴァの領主に | 1272 | ||||||||||||||||||||||||||
1275 | ヤーコポ・コンタリーニ[Jacopo Contarini]が、第47代ドージェ就任 | 1275 | |||||||||||||||||||||||||||
1282 | 3月30日 シチリアの晩鐘 | 1282 | |||||||||||||||||||||||||||
ナーポリ(本土側)はカルロ・ダンジョに残される | 9月1日 アラゴン王ペドロ3世、王位を奪取しピエトロ1世として即位 | ||||||||||||||||||||||||||||
1284 | ジェノヴァがメロリア[Meloria]の海戦でピサに勝ち、エルバ島を得る | コルシカ、ジェノヴァ領に | 1284 | ||||||||||||||||||||||||||
1285 | ヴェネツィアで地震 | 1月7日 ナーポリ王カルロ1世・ダンジョ死去 カルロ2世[Carlo II lo Zoppo]即位 | 11月10日 シチリア王ピエトロ1世死去 息子のジャコモ1世即位 | 1285 | |||||||||||||||||||||||||
1290 | アルベルト・マーニョ1世・スコッティがピアチェンツァの領主に | 1290 | |||||||||||||||||||||||||||
1291 | 1290 | ||||||||||||||||||||||||||||
1294 | 12月24日 教皇ボニファチオ8世即位 | 1294 | |||||||||||||||||||||||||||
1295 | 8月8日 オットーネ・ヴィスコンティ死去 | マルコ・ポーロ、ヴェネツィアに帰還 | アラゴーナのジャコモ、アナーニ条約[anagni](1295/6/12)でシチリアを放棄 | 1295 | |||||||||||||||||||||||||
1296 | シチリア王ピエトロ1世の息子フェデリーコ2世[Federico III d'Aragona]シチリア王即位 | 1296 | |||||||||||||||||||||||||||
1297 | アラゴン王ジャコモ2世、コルシカを領有 | 1297 | |||||||||||||||||||||||||||
1298 | 9月8日 クールツォラ[Curzola]島沖海戦で、ヴェネーツィアのアンドレーア・ダンドロ[Andrea Dandolo]がジェノヴァのランバ・ドーリア[Lamba Doria]の艦隊に敗れる | 1298 | |||||||||||||||||||||||||||
1300 | 1300 | ||||||||||||||||||||||||||||
1301 | 1301 | ||||||||||||||||||||||||||||
1302 | アオスタ公国が成立 | ヴィスコンティ家失脚、ミラノを脱出し領主はグイード・デッラ・トッレに | 8月31日 カルタベッロッタ[Caltabellotta]の和でアンジューとアラゴンが和解。シチリア王国の半島側がナーポリ王国となる。 | 8月31日 シチリア島側はトリナクリア王国に。 | 1302 | ||||||||||||||||||||||||
1303 | ボニファチオ8世、ローマ大学を創設 10月11日 教皇ボニファチオ8世死去 10月22日 教皇ベネデット11世即位 | 1303 | |||||||||||||||||||||||||||
1304 | 7月7日 教皇ベネデット11世死去 | 1304 | |||||||||||||||||||||||||||
1305 | 6月5日 ボルドー大司教が教皇クレメンテ5世にリヨンで即位 | 1305 | |||||||||||||||||||||||||||
1306 | テオドーロ1世・パレオロゴ、モンフェッラート侯に | 1306 | |||||||||||||||||||||||||||
1307 | アルベルト2世・スコッティがピアチェンツァ領主に | 1307 | |||||||||||||||||||||||||||
1308 | ヴェネツィア、フェッラーラを占領したが教皇軍に敗れる | 1308 | |||||||||||||||||||||||||||
1309 | アルベルト3世・スコッティがピアチェンツァ領主に | 教皇座がローマからアヴィニョンへ移動 | ナーポリ王にロベルト即位 | 1309 | |||||||||||||||||||||||||
1310 | 皇帝エンリーコ7世、ミラノに入城 | 1310 | |||||||||||||||||||||||||||
1311 | 7月13日 マッテオ・ヴィスコンティ[Matteo Visconti]、ロンバルディアの皇帝代官に任命される。 | 1311 | |||||||||||||||||||||||||||
1313 | 8月24日 皇帝エンリーコ7世、ブオンコンヴェント(SI)で死去 | 1311 | |||||||||||||||||||||||||||
1314 | ルッカ、ピーサ配下に | ローマ王フェデリーコ3世選出 | 1314 | ||||||||||||||||||||||||||
1317 | ピアチェンツァ、ヴィスコンティ家に | ガッド[Gaddo]がピーサ領主に | 1317 | ||||||||||||||||||||||||||
1318 | ジャコモ・ダ・カッラーラ[Giacomo da Carrara]がパドヴァの領主に | 1318 | |||||||||||||||||||||||||||
1320 | ラニエーリ・デッカ・ゲラルデスカ[Ranieri della Gherardesca]がピーサ領主に | 1320 | |||||||||||||||||||||||||||
1321 | 9月14日 ラヴェンナにて文人ダンテ・アリギエーリ死去 | アッシージ、ペルージャに占領される(〜1367) | 1321 | ||||||||||||||||||||||||||
1322 | 6月22日 マッテオ・ヴィスコンティ1世死去 | ルッカ、ピストイアを征服 | 1322 | ||||||||||||||||||||||||||
1323 | アラゴンが征服 | 1323 | |||||||||||||||||||||||||||
1324 | ペルージャ、スポレートを配下に | 1324 | |||||||||||||||||||||||||||
1327 | ルッカ公国成立。 カストルッチョ・カストラカーニ[Castruccio Castracani]がルッカ・ピストイア公に | 1327 | |||||||||||||||||||||||||||
1328 | 8月6日 ミラーノ領主ガレアッツォ・ヴィスコンティ1世死去 アッツォーネがミラーノ領主に | ルイージ・ゴンザーガがマントヴァの領主に | 皇帝ルドヴィーコ4世、ローマにて戴冠 | 1328 | |||||||||||||||||||||||||
1335 | ヴェルチェッリ、ヴィスコンティ家に | フランチェスコ・スコッティがピアチェンツァの領主に | 1335 | ||||||||||||||||||||||||||
1336 | ジェノヴァ、総督[doge]制を採択 | 12月15日 ピアチェンツァ、ヴィスコンティ家のミラーノに | 1336 | ||||||||||||||||||||||||||
1337 | 6月25日 シチリア王フェデリーコ2世死去、ピエトロ2世即位 | 1337 | |||||||||||||||||||||||||||
1338 | ジョヴァンニ2世・パレオロゴ、モンフェッラート侯に | 1338 | |||||||||||||||||||||||||||
1339 | 初代ドージェにシモーネ・ボッカネグラ[Simone Boccanegra] | 8月16日 アッツォーネ・ヴィスコンティ死去 ルキーノ・ヴィスコンティ1世、ミラーノ領主に | 1339 | ||||||||||||||||||||||||||
1341 | ルッカ、フィレンツェに併合 | 1341 | |||||||||||||||||||||||||||
1342 | ルッカ、ピーサに併合 | フィレンツェ、共和国に | シチリア王にルイージ即位 | 1342 | |||||||||||||||||||||||||
1343 | ピーサ大学設立 | ジョヴァンナ1世、ナーポリ国王に | 1343 | ||||||||||||||||||||||||||
1346 | パルマ、ヴィスコンティ家に | 1346 | |||||||||||||||||||||||||||
1348 | ミラーノ、アレッサンドリアを取得 | 1348 | |||||||||||||||||||||||||||
1349 | 1月24日 ミラーノ領主ルキーノ・ヴィスコンティ1世死去。後継は兄のジョヴァンニ。 | 1349 | |||||||||||||||||||||||||||
1352 | 教皇インノチェンツォ6世即位 | 1352 | |||||||||||||||||||||||||||
1353 | 10月10日 ミラーノ、ジェノヴァを配下に | 1353 | |||||||||||||||||||||||||||
1354 | 10月4/5日 ミラーノ領主ジョヴァンニ・ヴィスコンティ死去 10月11日 マッテオ2世、ガレアッツォ2世、ベルナボ[Bernabò]が後継。 | 教皇インノチェンツォ6世即位 | 1354 | ||||||||||||||||||||||||||
1355 | 9月29日 マッテオ2世・ヴィスコンティ死去 | シチリア王にフェデリーコ3世即位 | 1355 | ||||||||||||||||||||||||||
1356 | 10月4日 ジェノヴァ独立を回復。ボッカネグラが総督に | 1356 | |||||||||||||||||||||||||||
1357 | チェゼーナが自由都市から教皇領に | シチリア王フェデリーコ3世即位 | 1357 | ||||||||||||||||||||||||||
1363 | 1363 | ||||||||||||||||||||||||||||
1369 | ルッカ、帝国の自治都市に | 1369 | |||||||||||||||||||||||||||
1370 | ルッカ共和国に | 1370 | |||||||||||||||||||||||||||
1377 | 7月27日 シチリア王フェデリーコ3世死去。後継に妻のマリーア即位 | 1377 | |||||||||||||||||||||||||||
1378 | ニッコロ・グアルコが総督に | ガレアッツォ・ヴィスコンティ2世が死去 ジャン・ガレアッツォ1世・ヴィスコンティがミラーノの領主に | フィレンツェでチョンピの乱[il tumulto dei ciompi] | 1378 | |||||||||||||||||||||||||
1379 | チェゼーナがマラテスタ領に | 1379 | |||||||||||||||||||||||||||
1380 | キオッジャの戦い[Guerra di Chioggia] | 1380 | |||||||||||||||||||||||||||
1381 | トレヴィーゾがヴェネツィアに征服される | 8月8日 トリーノの和で第4次ジェノヴァ戦争終了 | トリエステ、ヴェネツィアからオーストリアに | カルロ3世、ナーポリ国王に | 1381 | ||||||||||||||||||||||||
1383 | 総督捕まる | オルシーニ家スポレートの領主に | 1383 | ||||||||||||||||||||||||||
1385 | ジャン・ガレアッツォがベルナボを幽閉、ミラーノ領主に。 12月18/19日 ベルナボ・ヴィスコンティが死去。 | 1385 | |||||||||||||||||||||||||||
1386 | ミラーノのドゥオーモ建設始まる | ラディズラーオ・ディ・ドゥラッツォ[Ladislao di Durazzo]、ナーポリ国王に | 1386 | ||||||||||||||||||||||||||
1387 | ミラーノが、ヴェローナ、ヴィチェンツァを併合 | 1387 | |||||||||||||||||||||||||||
1388 | ニッツァ、サヴォイア伯領に | 1388 | |||||||||||||||||||||||||||
1389 | ヴェネツィアがトレヴィーゾを併合 | ピエトロ・トマチェッリ、教皇ボニファチオ9世に> | 1389 | ||||||||||||||||||||||||||
1390 | シチリア王にマルティーノ1世(イル・ジョーヴァネ)即位 | 1390 | |||||||||||||||||||||||||||
1392 | マルタ島、シチリア王国に併合 | 1392 | |||||||||||||||||||||||||||
1394 | 対立教皇ベネデット13世即位 | 1394 | |||||||||||||||||||||||||||
1395 | 5月11日 ジャン・ガレアッツォ1世・ヴィスコンティが公位を取得。ミラーノ公国となる | ||||||||||||||||||||||||||||
1399 | シエーナ、ヴィスコンティ家に | ピーサ、ジャンガレアッツォ・ヴィスコンティのミラノ公国に | 1399 | ||||||||||||||||||||||||||
1400 | ルッカ、パオロ・グイニージ[Paolo Guinigi]領に | スポレート、ヴィスコンティ家に | 1400 | ||||||||||||||||||||||||||
1401 | ジェノヴァ、フランスに | ボローニャ、ヴィスコンティに征服されジョヴァンニ・ベンティヴォリオ1世が領主に | 1401 | ||||||||||||||||||||||||||
1402 | 9月3日 ジャンガレアッツォ死去。 ジョヴァンニ・マリーア・ヴィスコンティ[Giovanni Maria Visconti]、ミラーノ公即位 | ヴェネツィアがポレージネを征服 | 1402 | ||||||||||||||||||||||||||
1404 | オットボーノ・テルツィ[Ottobono Terzi]がピアチェンツァの領主に | ヴェネツィアがヴィチェンツァとベッルーノ取得 | 教皇インノチェンツォ7世即位 | 1404 | |||||||||||||||||||||||||
1405 | ヴェローナとパドヴァがヴェネツィアに併合される | 1405 | |||||||||||||||||||||||||||
1406 | フィレンツェ、ピサを併合 | 教皇グレゴリオ12世即位 | 1406 | ||||||||||||||||||||||||||
1409 | 7月25日 シチリア王マルティーノ1世が死去。父のアラゴン王がマルティーノ2世として即位 | 対立教皇アレッサンドロ5世即位 | 1409 | ||||||||||||||||||||||||||
1410 | 5月31日 シチリア王マルティーノ2世死去。王位は空白に | 対立教皇ジョヴァンニ23世即位 | 1410 | ||||||||||||||||||||||||||
1412 | 5月16日 ジョヴァンニ・マリーア・ヴィスコンティが暗殺され弟のフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティがミラーノ公即位 | シチリア、アラゴン領に。シチリア王位はアラゴン王フェルディナンド1世に | 1412 | ||||||||||||||||||||||||||
1414 | 8月6日 ラディズラーオ死去、姉のジョヴァンナ2世がナーポリ国王に | 1414 | |||||||||||||||||||||||||||
1416 | サヴォイア伯アメデーオ8世が神聖ローマ皇帝シジズモンドから公位を授かり、サヴォイア公国始まる。首都はシャンベリー | 1416 | |||||||||||||||||||||||||||
1417 | フェルディナンド1世死去。アラゴンのアルフォンソ5世がサルデーニャ王アルフォンソ1世に | 11月1日 教皇マルティーノ5世(Oddone Colonna)即位 | フェルディナンド1世死去。アルフォンソ5世がシチリア王アルフォンソ1世に | 1417 | |||||||||||||||||||||||||
1419 | スポレート、ブラッチョ・ダ・モントーネ[Braccio da Montone]に | 1419 | |||||||||||||||||||||||||||
1420 | アラゴン王アルフォンソ5世、サルデーニャ王を取得 | パルマ、ミラーノ公国に | ヴェネツィア、フリウリを取得。スパーラト[Spalto](スプリト)を取得 | フリウリ、ヴェネツィア領に | 1420 | ||||||||||||||||||||||||
1421 | ジェノヴァ、ヴィスコンティ家のミラノ公国に併合 | 1421 | |||||||||||||||||||||||||||
1424 | ミラノ傭兵隊長カルマニョーラがヴェネツィアに | ペルージャ、教皇領に スポレート、トマチェッリ[Tomacelli]に> | 1424 | ||||||||||||||||||||||||||
1426 | ヴェネツィアがブレシアを征服 | 1426 | |||||||||||||||||||||||||||
1427 | サヴォイア公国、ヴェルチェッリ取得 | 1427 | |||||||||||||||||||||||||||
1428 | 4月19日 フェラーラの和 4月26日 第二回フェラーラの和 ベルガモ、ブレシア、クレモーナがヴェネツィアへ | 1428 | |||||||||||||||||||||||||||
1430 | ルッカ、グイニージ領から共和国に | 1428 | |||||||||||||||||||||||||||
1431 | ルドヴィーコ2世がロンバルディア公[Principe]に | シジズモンド[Sigismondo di Lussemburgo]がイタリア王に | 2月20日 教皇マルティーノ5世死去 3月3日 エウジェニオ4世(Gabriele Condulmer)即位 | 1431 | |||||||||||||||||||||||||
1433 | サヴォイア家、モンフェッラートを取得(〜1434) | シジズモンドが皇帝に | 1433 | ||||||||||||||||||||||||||
1434 | フィレンツェ、領主制に。 | コルシカ、ジェノヴァ領に | 1434 | ||||||||||||||||||||||||||
1435 | ポンツァの海戦 | 2月2日 ナーポリ女王ジョヴァンナ2世死去 レナートが即位。これに反発するアラゴン王アルフォンソ5世がナーポリに侵攻 | 1435 | ||||||||||||||||||||||||||
1436 | Isnardo Guarco | 1436 | |||||||||||||||||||||||||||
1437 | 皇帝・イタリア王シジズモンド死去 | 1437 | |||||||||||||||||||||||||||
1439 | サヴォイア公アメデーオ8世が対立教皇フェリーチェ5世になる | 対立教皇フェリーチェ5世即位 | 1439 | ||||||||||||||||||||||||||
1440 | ルドヴィーコがサヴォイア公に。 | 6月29日 アンギアーリの戦いで、フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティはフィレンツェと教皇軍に敗れる | スポレート、教皇領に | 1440 | |||||||||||||||||||||||||
1441 | ラヴェンナがヴェネツィア領に | 1441 | |||||||||||||||||||||||||||
1442 | 6月12日 アラゴンの王アルフォンソ5世(シチリア王1世)がナーポリに入城 | 1442 | |||||||||||||||||||||||||||
1443 | フェデリーコがウルビーノ公になり、ウルビーノ公国成立 | アラゴン王アルフォンソ5世、ナーポリ・シチリア・サルデーニャ王アルフォンソ1世として即位、シチリア王国に再統一。首都はナーポリ | 1443 | ||||||||||||||||||||||||||
1444 | ルドヴィーコ3世・ゴンザーガ、マントヴァ侯に | 1444 | |||||||||||||||||||||||||||
1447 | 8月13日 フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティ死去。 ミラーノ、アンブロジャーナ共和国に | 8月16日 ピアチェンツァ、共和国に 9月15日 ピアチェンツァ、ヴェネツィアに占領される 11月16日 ピアチェンツァ、ミラーノに | 1447 | ||||||||||||||||||||||||||
1448 | ピアチェンツァ、スフォルツァ家に | 1448 | |||||||||||||||||||||||||||
1449 | フェリーチェ5世退位 | 1449 | |||||||||||||||||||||||||||
1450 | 2月27日 アンブロジャーナ共和国滅亡 3月3日 フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティの娘のビアンカ・マリーアの婿のフランチェスコ・スフォルツァ[Francesco Sforza]、ミラーノ公を宣言。ミラーノ継承戦争 | ボルソ・デステ[Borso d'Este]がモーデナ、フェッラーラの領主に | 1450 | ||||||||||||||||||||||||||
1452 | ボルソ・デステがモーデナ公、レッジョ公に | 1452 | |||||||||||||||||||||||||||
1454 | ミラーノ、ヴェネツィアとローディの和約を結ぶ | ミラーノ公国とローディの和 | 1454 | ||||||||||||||||||||||||||
1455 | アルフォンソ・ボルジャが教皇カッリスト3世[Callisto III]即位 | 1445 | |||||||||||||||||||||||||||
1458 | ジェノヴァ、フランスに(〜1460) | ナーポリ王にアルフォンソの子フェルディナンド1世(フェッランテ)即位 | シチリア王にアルフォンソの弟のジョヴァンニ | 1458 | |||||||||||||||||||||||||
1463 | スフォルツァ家に | 1463 | |||||||||||||||||||||||||||
1465 | サヴォイア公ルドヴィーコ死去。アメデーオ9世が後継 | チェゼーナ教皇領 | 1465 | ||||||||||||||||||||||||||
1466 | ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァがミラーノ公に | 1466 | |||||||||||||||||||||||||||
1468 | シチリア王位にフェルディナンド2世 | 1468 | |||||||||||||||||||||||||||
1469 | ロレンツォ・デ・メーディチ(イル・マニィフィコ)[Lorenzo de'Medici il Magnifico]、フィレンツェ領主に | 1468 | |||||||||||||||||||||||||||
1471 | フェッラーラ公国成立。ボルソ・デステがフェッラーラ公に | 1471 | |||||||||||||||||||||||||||
1472 | 3月30日 サヴォイア公アメデーオ9世死去し、息子のフィリベルト1世[Filiberto I]が即位 | 1472 | |||||||||||||||||||||||||||
1474 | ピオンビーノの領主にヤコポ4世[Iacopo IV/Jacopo IV]。 | 1474 | |||||||||||||||||||||||||||
1476 | 12月26日 ミラーノ公ガレアッツォ・マリーア死去 ジョヴァンニ・ガレアッツォ・スフォルツァがミラーノ公に。 | 1476 | |||||||||||||||||||||||||||
1478 | プロスペロ・アドルノが[Prospero Adorno]ジェノヴァ総督に ルドヴィーコ・フレゴーゾが総督に ジョヴァンニ・バッティスタ2世・フレゴーゾが総督に | 6月11日 マントヴァ侯ルドヴィーコ3世・ゴンザーガ死去 | 1478 | ||||||||||||||||||||||||||
1479 | スペイン王国が成立 | 1479 | |||||||||||||||||||||||||||
1482 | 9月22日 サヴォイア公フィリベルト1世死去 カルロ1世即位 | 12月12日 フェッラーラ戦争始まる | ヴェネツィアがロヴィーゴ取得 | 1482 | |||||||||||||||||||||||||
1484 | 8月7日 フェッラーラ戦争終わる | 1484 | |||||||||||||||||||||||||||
1490 | 3月13日 サヴォイア公カルロ1世死去 カルロ・ジョヴァンニ・アメデーオが即位 | 1490 | |||||||||||||||||||||||||||
1492 | 4月8日 フィレンツェ領主ロレンツォ・イル・マニィフィコ死去 | 7月25日 教皇インノチェンツォ8世死去 8月11日 ロドリーゴ・ボルジャが教皇アレッサンドロ6世として即位 | 8月3日 クリストフォロ・コロンボがアメリカ大陸を発見 | 1492 | |||||||||||||||||||||||||
1494 | 10月21日 ミラーノ公ジャン・ガレアッツォ死去。 叔父のルドヴィーコ(イル・モーロ)がミラーノ公に | 6月10日 フィレンツェ共和制へ サヴォナローラ神権政治はじめる | 11月9日 ピーサ独立 | 12月 シャルル8世、ローマに到達。教皇はサンタンジェロに籠城 | 1月25日フェッランテ死去 アルフォンソ2世即位 | 3月 シャルル8世、4万の軍を率いイタリアに向けて出陣 | 1494 | ||||||||||||||||||||||
1495 | 7月6日 フォルノーヴォの戦い[Battaglia di Fornovo]で、ミラーノ公国とヴェネーツィア共和国の連合軍がシャルル8世に勝利 | 7月 教皇、サヴォナローラを召喚 | 2月22日 フランス王シャルル8世がナーポリに無血入城 6月28日 セミナーラの戦い[Battaglia di Seminara]、スペイン軍がフランスに敗退。 12月18日 ナーポリ王アルフォンソ2世死去。フェルディナンド2世即位 | 1495 | |||||||||||||||||||||||||
1496 | 4月16日 カルロ2世・ジョヴァンニ・アメデーオ死去 サヴォイア公フィリッポ2世即位。 フィリッポ2世、マルゲリータと再婚 | レオナルド・ダ・ヴィンチ、最後の晩餐を書きはじめる | 10月5日 フェルディナンド2世死去 フェデリーコ即位 | 1496 | |||||||||||||||||||||||||
1497 | サヴォイア公フィリベルト2世即位 | 教皇、サヴォナローラを破門 | 1497 | ||||||||||||||||||||||||||
1498 | 5月23日 サヴォナローラ処刑 | 4月7日 シャルル8世死去 | 1498 | ||||||||||||||||||||||||||
1499 | フランスに | 7月15日 ルイ12世率いるフランス軍がミラーノに侵入 10月18日フランス軍が占領したミラーノにルイ12世凱旋入城 ルドヴィーコ追放。ルドヴィーコは首都をパヴィーアに。 | フランスがピアチェンツァを占領(〜1512) | 6月15日 ルイ12世とバロワ条約[Trattato di Blois]を締結 | スイス独立 | 1499 | |||||||||||||||||||||||
1500 | 2月5日 ルドヴィーコ、ミラノに帰還 4月9日 ルドヴィーコ、フランスを迎え撃ったノヴァーラで敗北し幽閉される。 4月10日 フランス王ルイ12世がミラーノ公に | フォルリが教皇領に | ゴリツィアがオーストリアに | スペインとフランスの間にグラナダ協定でナーポリ王国北部がフランスに | |||||||||||||||||||||||||
1501 | チェーザレ・ボルジャ、ロマーニャ公に | フェデリーコ、フランスに亡命。 | 1501 | ||||||||||||||||||||||||||
1502 | フィレンツェ共和制に。ピエール・ソデリーニ[Pier Soderini]が終身ゴンファロニエーレとして就任。 | 5月14日 教皇グレゴリオ13世即位 | チェーザレ・ボルジャ、ウルビーノ公に。アッシージ、ウルビーノが教皇領に | 1502 | |||||||||||||||||||||||||
1503 | 8月18日 アレッサンドロ6世死去 9月22日 ピオ3世即位 10月18日 ピオ3世死去 11月1日 ジュリオ2世即位 | スペインの司令官コルドヴァ、ナーポリを占領 | 1503 | ||||||||||||||||||||||||||
1504 | 9月10日 フィリベルト2世死去 サヴォイア公カルロ2世即位 | ナーポリ王国、スペイン領になる。コルドヴァが総督 ナーポリ王国からフランス軍を追放 | 1504 | ||||||||||||||||||||||||||
1505 | バルレッタの決闘。 | 1505 | |||||||||||||||||||||||||||
1506 | レオナルド、ミラーノに移住 | ボローニャ教皇領に | 1506 | ||||||||||||||||||||||||||
1507 | 3月12日 チェーザレ・ボルジャ、スペインで戦死 | 1507 | |||||||||||||||||||||||||||
1508 | ジェノヴァ、12日ほどフランスから解放 | 5月27日 ルドヴィーコ・スフォルツァ捕われのまま死去 | 12月10日 教皇国、カンブレー同盟をフランスに提唱 | 1508 | |||||||||||||||||||||||||
1509 | クレモーナがミラーノ公国に戻る。 5月14日 アニャデッロの戦い[Battaglia di Agnadello]。カンブレー同盟側がヴェネツィアに勝利。 | ロマーニャ、教皇領に | ヤコポ4世がピオンビーノ公に | 6月8日 ピーサ、フィレンツェに併合 以降ピーサについてはフィレンツェの項に記述 | 1509 | ||||||||||||||||||||||||
1510 | 4月 ピオンビーノ公[Principe]にヤコポ5世 | 1510 | |||||||||||||||||||||||||||
1511 | 10月5日 対フランスの神聖同盟[Lega Santa]発足 | 1511 | |||||||||||||||||||||||||||
1512 | ラヴェンナの戦いの結果エルコレ・マッシミリアーノ・スフォルツァがミラーノ公に 1月 ブレーシャ、フランスからヴェネツィアに 2月9日 | ピアチェンツァ解放 | 4月11日 ラヴェンナで仏軍と西軍が戦闘しフランスの勝利 | ジョヴァンニ・デ・メーディチ[Givanni de'Medici]がフィレンツェの領主に | 5月10日 第5回ラテラーノ公会議開催 | 1512 | |||||||||||||||||||||||
1513 | 5月 フランス艦隊ジェノヴァへ 6月17日 ジェノヴァ、オッタヴィアーノ・フレゴーゾ[Ottaviano Fregoso]が総督に選ばれ、対仏体制となる。 | 5月 仏軍、アレッサンドリア、アスティなどを占領。 6月6日 ノヴァーラの戦い[Battaglia di Novara]でスイス軍、フランスに敗北 ブレーシャ、スペイン領→ヴェネツィア領→スペイン領に | ジョヴァンニの教皇選出にともないジュリアーノ・デ・メーディチがフィレンツェの領主に | 2月21日 ジュリオ2世死去 3月11日 ジョヴァンニ・デ・メーディチがレオーネ10世として即位 | 1513 | ||||||||||||||||||||||||
1515 | 9月13〜14日 マリニャーノの戦闘[Battaglia di Marignano](フランス・ヴェネツィア共和国連合軍対ミラーノ・スイス) マッシミリアーノ追放されミラーノ公国はフランス配下に。 | 1月1日 フランス王ルイ12世死去 | 1515 | ||||||||||||||||||||||||||
1516 | 5月 ブレーシャ、ヴェネツィア領に | トレンティーノ、神聖ローマ帝国に | スペイン王カルロ1世、ナーポリ王カルロ4世 | 1516 | |||||||||||||||||||||||||
1519 | ナーポリ王カルロ4世(スペイン王カルロ1世)が皇帝カール5世に | 1519 | |||||||||||||||||||||||||||
1520 | ポルデノーネ、ヴェネツィア領に | 1520 | |||||||||||||||||||||||||||
1521 | マッシミリアーノ・スフォルツァの弟フランチェスコ・マリーア、ミラーノ公フランチェスコ2世に | パルマとピアチェンツァが教皇領に | 12月1日 レオーネ10世死去。 | 1521 | |||||||||||||||||||||||||
1522 | 1月9日 アドリアーノ6世即位 | 1522 | |||||||||||||||||||||||||||
1523 | 9月14日 アドリアーノ6世死去 11月19日 ジューリオ・デ・メーディチが教皇クレメンテ7世として即位 | 1523 | |||||||||||||||||||||||||||
1524 | フレゴーゾ死去 | 夏 フランス軍パヴィーアを包囲 | 1524 | ||||||||||||||||||||||||||
1525 | 2月25日 パヴィーアの戦いで、フランス軍が敗れフランソワ王が捕虜に | 1525 | |||||||||||||||||||||||||||
1527 | アンドレーア・ドーリアによってアントニオット2世を追放 | 6月 フィレンツェからメーディチ家が追放される フィオレンティーナ共和国に 6月22日 ニコロ・マキャヴェッリ死去 | 5月6日 皇帝軍(カール5世は不参加)のローマ掠奪(サッコ・ディ・ローマ) | 1527 | |||||||||||||||||||||||||
1529 | フランチェスコ2世、再びミラーノ公に | ラヴェンナ教皇領に | 8月5日 カンブレー[Cambrai]の和で独仏が和約 | 1529 | |||||||||||||||||||||||||
1530 | アスティ、サヴォイア公国へ | マントヴァ侯フェデリーコ・ゴンザーガ2世[Federico II Gonzaga]、マントヴァ公に マントヴァ公国成立 | 神聖ローマ帝国皇帝カール5世がローマにて戴冠 | 1530 | |||||||||||||||||||||||||
1531 | アレッサンドロ・メーディチ[Alessandro Medici]、フィレンツェに戻り支配。フィレンツェ共和国は滅亡しトスカーナ公国となる。 | 1531 | |||||||||||||||||||||||||||
1532 | アレッサンドロ・メーディチ、トスカーナ公に | 1532 | |||||||||||||||||||||||||||
1534 | 9月25日 クレメンテ7世死去 10月13日 アレッサンドロ・ファルネーゼ、教皇パオロ3世に即位 | 1534 | |||||||||||||||||||||||||||
1535 | フランチェスコ2世・スフォルツァ死去 後継者なくロンバルディアは、ハプスブルク家のスペイン領に | 1535 | |||||||||||||||||||||||||||
1536 | サヴォイア公国、ジュネーヴを失う | 4月3日 仏軍、トリーノを占領 | フェデリーコ・ゴンザーガ2世、モンフェッラート侯に | 1536 | |||||||||||||||||||||||||
1537 | コジモ1世・デ・メーディチ、トスカーナ公に | 教皇パオロ3世、ヴィテルボにカストロ公国[Ducato di Castro]を建国(元は教皇領) | 1537 | ||||||||||||||||||||||||||
1538 | 教皇パオロ3世の息子ピエル・ルイージ・ファルネーゼ[Pier Luigi Farnese]、カストロ公即位 | 1538 | |||||||||||||||||||||||||||
1539 | フェッランテ1世・ゴンザーガ、グアスタッラ伯に | 1539 | |||||||||||||||||||||||||||
1540 | ジャンフランチェスコ3世・ゴンザーガ、マントヴァ公に | ウンブリアは塩戦争で教皇庁に敗北教皇領になる | 1540 | ||||||||||||||||||||||||||
1545 | 9月16日 パルマ・ピアチェンツァ公国成立(元は教皇領)、ピエル・ルイージ・ファルネーゼ即位 | 12月13日 トレントでトレント公会議始まる | 1545 | ||||||||||||||||||||||||||
1547 | 9月10日 パルマ・ピアチェンツァ公にオッターヴィオ即位 | トレント公会議終わる。 | 1547 | ||||||||||||||||||||||||||
1549 | 11月10日 パオロ3世死去 | 1549 | |||||||||||||||||||||||||||
1550 | 2月21日 モンフェッラート侯フランチェスコ1世(マントヴァ公3世)死去 グリエルモ・ゴンザーガ、モンフェッラート侯グリエルモ10世に | 2月21日 マントヴァ公フランチェスコ1世死去 弟のグリエルモ・ゴンザーガ、マントヴァ公に | 2月7日 ジョヴァンニ・マリーア・デ・チョッキ・デル・モンテ[Giovanni Maria de' Ciocchi del Monte]が教皇ジュリオ3世に選出 教皇ジュリオ3世即位 | 1550 | |||||||||||||||||||||||||
1551 | ボローニャで第二回トレント公会議始まる | 1551 | |||||||||||||||||||||||||||
1553 | サヴォイア公エマヌエーレ・フィリベルト即位 | 3月23日 ジュリオ3世死去 チェルヴィーニ枢機卿が教皇マルチェッロ2世に 5月1日 マルチェッロ2世死去 5月23日 ジャン・ピエートロ・カラーファ[Gian Pietro Carafa]が教皇パオロ4世に | コルシカ、仏領に | 1553 | |||||||||||||||||||||||||
1555 | フィレンツェ、シエナを征服 フィレンツェ、トスカーナ公国の首都に。 | 1555 | |||||||||||||||||||||||||||
1556 | スペイン王フェリペ2世、ナーポリ、シチリア王フィリッポ1世に | 1556 | |||||||||||||||||||||||||||
1557 | グアスタッラ伯フェッランテ・ゴンザーガ死去。長男チェーザレが後継 | ジョルダーノ・オルシーニ[Giordano Orsini]、コルシカのフランスへの帰属を承認 | 1557 | ||||||||||||||||||||||||||
1558 | グアスタッラ伯チェーザレ・ゴンザーガがアマルフィ公に | 1558 | |||||||||||||||||||||||||||
1559 | モンフェッラート、ゴンザーガ家に | 4月3日 コルシカ、ジェノヴァ領に | 4月2〜3日 西仏間でカトー=カンブレジ[Cateau-Cambresis]の和 | 1559 | |||||||||||||||||||||||||
1560 | 11月25日 アンドレーア・ドーリア死去 | 1560 | |||||||||||||||||||||||||||
1563 | トリーノ、サヴォイア公国の首都に | トレント公会議終わる。 | 1563 | ||||||||||||||||||||||||||
1564 | 2月18日 画家彫刻家ミケランジェロ・ブオナッローティがローマにて死去 | 1564 | |||||||||||||||||||||||||||
1569 | コジモ1世はトスカーナ大公に | 1569 | |||||||||||||||||||||||||||
1571 | 10月7日 レパント[Lepanto]の海戦の勝利 | 1571 | |||||||||||||||||||||||||||
1574 | 1574 | ||||||||||||||||||||||||||||
1575 | グリエルモ・ゴンザーガ、モンフェッラート公に(1574?) | グアスタッラ公チェーザレ・ゴンザーガ死去 | アマルフィ公チェーザレ・ゴンザーガ死去 | 1575 | |||||||||||||||||||||||||
1577 | 1月18日 ヴェスパシャーノ・ゴンザーガがサッビオネータ公になりサッビオネータ公国成立 | 1577 | |||||||||||||||||||||||||||
1580 | サヴォイア公にカルロ・エマヌエーレ1世[Carlo Emanuele I]即位 | ソーラ公領が君主国になりソーラ公国[Ducato di Sora]が成立(〜1796) | 1580 | ||||||||||||||||||||||||||
1582 | グレゴリオ歴採用 10月5日の次が10月15日 | 1582 | |||||||||||||||||||||||||||
1586 | 9月18日 パルマ・ピアチェンツァ公にアレッサンドロ即位 | 1586 | |||||||||||||||||||||||||||
1587 | 8月14日 モンフェッラート公グリエルモ死去 ヴィンチェンツォ・ゴンザーガ1世、モンフェッラート公に | 8月14日 マントヴァ公グリエルモ死去 ヴィンチェンツォ・ゴンザーガ1世、マントヴァ公に | 1587 | ||||||||||||||||||||||||||
1588 | リアルト橋の建築が始まる | 1588 | |||||||||||||||||||||||||||
1591 | サッビオネータ公ヴェスパシャーノ・ゴンザーガ死去 | 1591 | |||||||||||||||||||||||||||
1592 | 12月3日 パルマ・ピアチェンツァ公にラヌッチョ1世即位 | 1592 | |||||||||||||||||||||||||||
1594 | ピオンビーノ公国[Principato di Piombino]成立(-1805)。 ヤコポ7世が太子 | 1594 | |||||||||||||||||||||||||||
1597 | フェッラーラ・モーデナ公アルフォンソ・デステ死去、 チェーザレ・デステが後継に | ピオンビーノ、公国[Principato di Piombino]に | 1597 | ||||||||||||||||||||||||||
1598 | エステ家、フェラーラを離れて首都をモーデナに | フェラーラ教皇領に | スペイン王フェリペ3世、ナーポリ、シチリア王フィリッポ2世に即位 | 1598 | |||||||||||||||||||||||||
1601 | 1月17日 サヴォイア、リヨン条約[Trattato di Lione]によりサルッツォ侯国を併合、代わりにローヌ[Rodano]川左岸(Bugey, Bresse, Valromey, Gex)をフランスに | サヴォイア公カルロ・エマヌエーレと仏王アンリ4世との間でリヨン条約 | 1601 | ||||||||||||||||||||||||||
1610 | 7月18日 画家カラヴァッジョ死去 | 1610 | |||||||||||||||||||||||||||
1612 | 2月18日 マントヴァ・モンフェッラート公ヴィンチェンツォ1世・ゴンザーガ死去。息子のフランチェスコ4世が後継するが12月22日死去 弟のフェルディナンドが後継に | 1612 | |||||||||||||||||||||||||||
1613 | サヴォイア公カルロ・エマヌエーレ1世、モンフェッラート占領(〜1618)。 第一次モンフェッラート戦争 | 1613 | |||||||||||||||||||||||||||
1617 | 第一次モンフェッラート戦争終了 | 1617 | |||||||||||||||||||||||||||
1621 | フェッランテ2世グアスタッラ公に | 教皇グレゴリオ15世即位 | 3月31日 フィリッポ2世死去。 スペイン王フェリペ4世、ナーポリ、シチリア王フィリッポ3世に | 1621 | |||||||||||||||||||||||||
1622 | 3月5日 パルマ・ピアチェンツァ公にオドアルド・ファルネーゼ即位 | 1622 | |||||||||||||||||||||||||||
1623 | ウルビーノ公にフランチェスコ・マリーア2世・デッレ・ローヴェレ即位 | 1623 | |||||||||||||||||||||||||||
1626 | 10月29日 マントヴァ・モンフェッラート公フェルディナンド・ゴンザーガ死去 弟のヴィンチェンツォ2世が後継に | 1626 | |||||||||||||||||||||||||||
1627 | マントヴァ・モンフェッラート公ヴィンチェンツォ2世・ゴンザーガ2世死去、カルロ1世・ゴンザーガ=ヌヴェール[Carlo I Gonzaga-Nevers]が後継 | 1627 | |||||||||||||||||||||||||||
1630 | サヴォイア公ヴィットーリオ・アメデーオ1世即位 | グアスタッラ公フェッランテ2世・ゴンザーガ死去。 | 1630 | ||||||||||||||||||||||||||
1631 | サヴォイア家、ケラスコの和でアルバとトリノ[Trino]を取得 | 4月6日 ケラスコの和[pace di Cherasco]で第二次モンフェッラート戦争終了 | フェデリーコ2世・ゴンザーガの孫カルロ1世・ゴンザーガがマントヴァ・モンフェッラート公に | ウルビーノが教皇領に | 1631 | ||||||||||||||||||||||||
1632 | フェッランテ3世・ゴンザーガがグアスタッラ公に | 1632 | |||||||||||||||||||||||||||
1634 | ピオンビーノ公[Principe]にニッコロ・ルドヴィシ[Niccolo Ludovisi]即位 | 1634 | |||||||||||||||||||||||||||
1637 | サヴォイア公にマントヴァ公フェルディナンドの庶子フランチェスコ・ジャチント即位 | 9月22日 マントヴァ・モンフェッラート公のカルロ1世死去。息子のカルロ2世が後継 | ジェノヴァ総督コルシカ王に | ||||||||||||||||||||||||||
1638 | サヴォイア公カルロ・エマヌエーレ2世即位 | 1638 | |||||||||||||||||||||||||||
1641 | オドアルド・ファルネーゼとウルバーノ8世バルベリーニでカストロ戦争 | 1641 | |||||||||||||||||||||||||||
1644 | 3月31日 ローマ条約を締結 | 1644 | |||||||||||||||||||||||||||
1646 | 9月12日 パルマ・ピアチェンツァ公にラヌッチョ2世即位 | 1646 | |||||||||||||||||||||||||||
1649 | カストロ教皇領に | 1649 | |||||||||||||||||||||||||||
1655 | ファビオ・キージ[Fabio Chigi]が教皇アレッサンドロ7世に即位 | 1655 | |||||||||||||||||||||||||||
1659 | モナコ公国[Principato]成立 | 1659 | |||||||||||||||||||||||||||
1664 | モナコ公国[Principato]成立 | 1664 | |||||||||||||||||||||||||||
1665 | 8月14日 マントヴァ・モンフェッラート公カルロ2世死去。 息子のフェルディナンド・カルロが後継 | 9月17日 フィリッポ3世死去。 スペイン王カルロス2世が、ナーポリ王カルロ5世、シチリア王カルロ2世に | 1665 | ||||||||||||||||||||||||||
1675 | サヴォイア公ヴィットーリオ・アメデーオ2世即位 | 1675 | |||||||||||||||||||||||||||
1678 | グアスタッラ公フェッランテ3世死去、娘婿のフェルディナンド・カルロが後継 | 1678 | |||||||||||||||||||||||||||
1694 | 12月12日 パルマ・ピアチェンツァ公にフランチェスコ・マリーア即位 | モーデナ公にリナルド2世・デステ即位 | 1694 | ||||||||||||||||||||||||||
1700 | 教皇クレメンテ11世即位 | 11月1日 カルロ5世死去 孫が、スペイン王フェリペ5世、ナーポリ王フィリッポ4世、シチリア王フィリッポ4世に | 1700 | ||||||||||||||||||||||||||
1701 | スペイン継承戦争始まる(〜1714) | 1701 | |||||||||||||||||||||||||||
1702 | フェルディナンド・カルロ・ゴンザーガ、グアスタッラ公に | 1702 | |||||||||||||||||||||||||||
1703 | 10月 サルデーニャ王国反仏同盟に加わる | レオポルト1世の子(後の神聖ローマ皇帝カール6世)、スペイン王カルロス3世を主張 | 1703 | ||||||||||||||||||||||||||
1706 | 仏軍、トリーノを包囲 | ハプスブルク家のオーストリア、ミラーノを併合。カルロがミラーノ王に ロンバルディアはアレッサンドリア、ノヴァーラの一部、ロメッリーナを失う。 | |||||||||||||||||||||||||||
1707 | 9月 オーストリア軍ナーポリ占領 | 1707 | |||||||||||||||||||||||||||
1708 | サヴォイア公国、モンフェッラートを占領 | リナルド・デステ、ミラーノ公に | マントヴァ・モンフェッラート・グアスタッラ公フェルディナンド・カルロ死去 | 1708 | |||||||||||||||||||||||||
1709 | 1708 | ||||||||||||||||||||||||||||
1713 | ラシュタット条約によりオーストリアに帰属 | モンフェッラート、ユトレヒトの和約によりサヴォイア公国に併合 | ユトレヒトの和約によりサヴォイア家シチリア王国を取得 | 4月11日 ユトレヒト[Utrecht]の和約 | 1713 | ||||||||||||||||||||||||
1714 | ミラーノ、ノヴァーラ、マントヴァ、オーストリア領に | 12月9日 トルコがヴェネツィアに宣戦布告 | ラシュタット条約によりオーストリアに帰属。 神聖ローマ皇帝カール6世がナーポリ王カルロ6世となる。 | サヴォイア公ヴィットリオ・アメデーオ2世、シチリア王になる | 3月7日 ラシュタット[Rastatt]条約によりスペイン継承戦争終わる | 1714 | |||||||||||||||||||||||
1718 | ロンドン条約により、オーストリアはサルデーニャをサヴォイアのシチリアと交換することに | 7月1日 スペイン軍、パレルモを包囲 | ロンドン条約 7月21日 trattato di Passarowitz | 1718 | |||||||||||||||||||||||||
1720 | ロンドン条約によりサヴォイア公ヴィットリーオ・アメデーオ2世、サルデーニャ王になる。 サヴォイア公国はサルデーニャ王国になる。首都はトリーノ。 | ロンドン条約によりシチリア、ハプスブルグ家傘下になる。 皇帝カール6世がシチリア王カルロ5世に。 | 2月 ハーグの和約 | 1720 | |||||||||||||||||||||||||
1721 | 教皇インノチェンツォ13世即位 | 1721 | |||||||||||||||||||||||||||
1724 | 5月29日 教皇ベネデット13世即位 | 1724 | |||||||||||||||||||||||||||
1727 | 2月27日 パルマ・ピアチェンツァ公にアントーニオ・フランチェスコ即位 | 1727 | |||||||||||||||||||||||||||
1728 | ベルガモがヴェネツィアに | ヴェネツィアがベルガモ併合 | 1728 | ||||||||||||||||||||||||||
1729 | コルシカ独立戦争始まる | 1729 | |||||||||||||||||||||||||||
1730 | サルデーニャ王にカルロ・エマヌエーレ3世即位 | 教皇クレメンテ12世即位 | 1730 | ||||||||||||||||||||||||||
1731 | 12月29日 スペイン王フェリぺ5世とエリザベッタ・ファルネーゼの息子のドン・カルロスがパルマ・ピアチェンツァ公カルロ1世に | 1731 | |||||||||||||||||||||||||||
1733 | カルロ・エマヌエーレ3世と仏軍、ロンバルディーア侵攻 | ポーランド継承戦争開始 | 1733 | ||||||||||||||||||||||||||
1734 | トルトーナ、ノヴァーラがサルデーニャ公国に併合 | 3月 スペイン王軍がナーポリ占領、スペイン・ブルボン家のドン・カルロスがナーポリ王カルロ7世、シチリア王カルロ5世に | 1734 | ||||||||||||||||||||||||||
1735 | 5月19日 カルロ、パレルモに入城 7月3日 カルロ戴冠 | 1月30日 コルシカ、独立宣言 | 1735 | ||||||||||||||||||||||||||
1736 | 4月28日 パルマ、オーストリアに | 1736 | |||||||||||||||||||||||||||
1737 | モーデナ公リナルド死去。息子のフランチェスコ3世が後継 | 7月9日 ジャン・ガストーネ・デ・メーディチ死去によりメーディチ家断絶 ハプスブルク家のロートリンゲン(ロレーナ、ロレーヌ)公フランツ3世・シュテファンにわたりトスカーナ大公フランチェスコ2世となる。 | 1737 | ||||||||||||||||||||||||||
1738 | サルデーニャ王国によるミラーノ占領 | ウイーン条約によりパルマ・ピアチェンツァ公国はグアスタッラ公国を併合して、オーストリア配下に | ポーランド継承戦争終わる | 1738 | |||||||||||||||||||||||||
1740 | 教皇ベネデット14世即位 | オーストリア継承戦争始まる(〜1748) | 1740 | ||||||||||||||||||||||||||
1742 | 墺軍モーデナ公国を占領(〜1748) | 1742 | |||||||||||||||||||||||||||
1745 | 仏軍、インぺリアを占領 | 9月16日 パルマをスペインが占領 | 1745 | ||||||||||||||||||||||||||
1746 | サヴォイア、インぺリアを取得 | ジェノヴァ共和国はオーストリアに降伏 | 4月20日 パルマはオーストリアが奪回 | 6月7日 コルシカ独立宣言 | 1746 | ||||||||||||||||||||||||
1748 | ロンバルディーアはヴィジェヴァーノ、オルトレポー、ヴァル・ドッソラを失う | 10月19日 ブルボン家のフィリッポ・ボルボーネがパルマ・ピアチェンツァグアスタッラ公即位 | アーヘンの和約によりオーストリア継承戦争終わる(1740〜) | 1748 | |||||||||||||||||||||||||
1749 | サヴォイア、インぺリアを手放す | 1749 | |||||||||||||||||||||||||||
1751 | ジェノヴァ、コルシカを征服 | 1751 | |||||||||||||||||||||||||||
1753 | 2月 コルシカ王国独立宣言 | 1753 | |||||||||||||||||||||||||||
1755 | コルシカ独立(ジェノヴァが領土権) | 1755 | |||||||||||||||||||||||||||
1756 | 1756 | ||||||||||||||||||||||||||||
1758 | 教皇クレメンテ13世即位 | 1758 | |||||||||||||||||||||||||||
1759 | カール・ジョセフ・フィルミアンがミラーノの全権を委ねられる | カルロはナーポリ・シチリア王を退位しスペイン王カルロス3世に 息子のフェルディナンドがナーポリ王フェルディナンド4世、シチリア王フェルディナンド3世に即位 | 1759 | ||||||||||||||||||||||||||
1765 | 7月18日 パルマ公フェルディナンド即位(〜1801) | トスカーナ大公にピエトロ・レオポルド1世即位 | 1765 | ||||||||||||||||||||||||||
1768 | 5月15日 ジェノヴァ、ヴェルサイユ条約によりコルシカをフランスに移譲 | 1768 | |||||||||||||||||||||||||||
1769 | 教皇クレメンテ14世即位 | 8月15日 アヤッチョにてナポレオーネが生まれる | 1769 | ||||||||||||||||||||||||||
1773 | ヴィットーリオ・アメデーオ3世即位 | 1773 | |||||||||||||||||||||||||||
1775 | 教皇ピオ6世即位 | 1775 | |||||||||||||||||||||||||||
1780 | 2月22日 フランチェスコ3世・デステ死去。息子のエルコレ3世が後継 | 1780 | |||||||||||||||||||||||||||
1789 | フランス革命始まる(〜1799) | 1789 | |||||||||||||||||||||||||||
1790 | トスカーナ大公ピエトロ・レオポルド1世が皇帝レオポルト2世に即位し、息子のフェルディナンド3世が即位 | 1790 | |||||||||||||||||||||||||||
1792 | 11月 サヴォイアがフランスに併合される | 9月 サルデーニャ王国、フランスと開戦 | 2月 フランス、ナーポリ港に艦隊を派遣 | 1792 | |||||||||||||||||||||||||
1793 | 1月31日 ニッツァがフランスに占領される | 10月 イギリス艦隊がリヴォルノに入港、その圧力でトスカーナ大公国はフランスと開戦 | 7月 ナポリ、シチリア王国はイギリスと同盟を組みフランスと開戦 | 1793 | |||||||||||||||||||||||||
1796 | 4月28日 サルデーニャ王国、ケラスコの休戦[armistizio di Cherasco]でナポレオーネのフランスに降伏。 サヴォイア、ニッツァ、クーネオ、テンダ、ブレリオを割譲 | 5月10日 ナポレオーネ、ローディで墺軍を破る 5月15日 ナポレオーネ、ミラーノに入城しトランスパダーナ共和国建国 | 10月 ナポレオーネによりモーデナ、レッジョ、フェッラーラ、ボローニャを統合。チスパダーナ共和国[Repubblica Cispadana]発足。 レッジョ・エミーリア会議でナーポリ王国と和平 | 11月 ナポレオーネ、ヴェローナを占領。 | 11月 仏軍、トレントを占領 | 6月 ナーポリ王国、ナポレオーネに降伏。 | 1796 | ||||||||||||||||||||||
1797 | 1月 レッジョ・エミーリア会議でトスカーナ大公国と和平 2月 レッジョ・エミーリア会議で教皇国と和平 | ロマーニャ、チスパダーナに併合 | 4月26日 仏軍、ヴィチェンツァを占領 4月28日 仏軍、パドヴァを占領 5月12日 フランス軍の侵攻で、ヴェネツィア総督ルドヴィーコ・マニン廃位 5月15日 仏軍、ヴェネツィアに侵攻 | 10月17日 墺仏間でカンポフォルミオ[Campoformio]の条約 | 1797 | ||||||||||||||||||||||||
6月6日 仏軍によりジェノヴァ共和国滅亡、リグーリア共和国[Repubblica Ligre]建国 | 6月29日 ナポレオーネはロンバルディア、モーデナ、レッジョ、フェッラーラ、ベルガモ、ブレッシャとチスパダーナ共和国を統合、チザルピーナ共和国[Repubblica Cisalpina]発足。 ジョアッキーノ・ミュラ[Gioacchino Murat]、チザルピーナ大統領に 7月8日 公表 首都はミラーノ | 5月19日 チスパダーナ共和国解体 7月23日 チザルピーナ共和国に統合 | 10月 カンポフォルミオ条約によりヴェネツイア共和国の滅亡が確定し、フランスからオーストリアに譲渡 | ||||||||||||||||||||||||||
1798 | 12月9日 カルロ・エマヌエーレ4世追放 | 1月19日 墺軍、ヴェネツィアに侵攻 | フランス軍が教皇国に侵略 2月 フランス軍が占領 ピオ6世、フランス軍に捕まる。 ローマ共和国の発足宣言 | マルケ、ローマ共和国に | ナーポリ、フランスに宣戦布告 12月21日 フェルディナンド4世ナーポリから追放、シチーリアへ | 1798 | |||||||||||||||||||||||
1799 | ピエモンテ、フランスに併合。 6月26日 ロシア軍トリーノを占領 | 4月27日 墺軍、ミラーノに入城 | 1月 仏軍がルッカ占領 フランス軍、フィレンツェを占領 3月27日 トスカーナ公フェルディナンド3世追放、ウィーンへ | 9月30日 ローマ共和国崩壊 | 1月23日 ナーポリに仏軍後援のパルテノペ共和国[Repubblica Partenopea]が成立 6月20日 ファブリーツィオ・ルッフォ[Fabrizio Ruffo di Bagnara]の攻撃に降伏 6月25日 滅亡 ナーポリ王フェルディナンド4世復位 | 1799 | |||||||||||||||||||||||
1800 | アオスタ、フランスに併合 | 6月18日 マレンゴの戦いで仏軍が墺軍に勝利 | 6月 ジェノヴァ、墺軍に占領される | 6月2日 ナポレオーネ、ミラーノに入城 | 教皇ピオ7世即位 | 1800 | |||||||||||||||||||||||
1801 | ルッカ共和国[Repubblica Lucchese]が成立 | 3月21日 ナポレオーネにより、トスカーナはエトルリア王国に[Regno di Etruria](〜1809)。 ルドヴィーコI世(ボルボーネ家)が即位。 | 3月21日 ピオンビーノ公国はフランスに占領される | 1801 | |||||||||||||||||||||||||
1802 | 6月 カルロ・エマヌエーレ4世退位 弟のヴィットーリオ・エマヌエーレ1世がサルデーニャ王に即位 | 1月26日 チザルピーナ、イタリア共和国と改称 ナポレオーネが大統領に | 10月23日 パルマ公が死去しパルマ公国はフランスに占領される。 | エルバ島、フランスに併合。 | 1802 | ||||||||||||||||||||||||
1803 | エトルリア王にパルマ公フェルディナンドの息子ルドヴィーコ2世(カルロ2世・ルドヴィーコ)即位(〜1815) | ピオンビーノ公国はフランスに併合 | 1803 | ||||||||||||||||||||||||||
1804 | 5月 ナポレオーネがフランス皇帝ナポレオン1世に即位 | 1804 | |||||||||||||||||||||||||||
1805 | 5月25日 リグーリア共和国、フランスに併合。 | 3月18日 イタリア共和国イタリア王国[Regno Italico]に 5月26日 フランス皇帝ナポレオン1世、イタリア王ナポレオーネとしてミラーノで戴冠 | 6月21日 パルマ、ピアチェンツァ公国、ナポレオーネの妹に。 | 6月23日 ルッカ共和国、フェリーチェ・バチョッキのルッカ公国に。 | ピオンビーノ公国はエリーザ・バチョッキ[Elisa Baciocchi]に | 2月2日、仏軍ローマを占領 | フランス軍、アンコーナ占領 | 12月26日 仏墺でプレスブルグの和 | 1805 | ||||||||||||||||||||
1806 | (フランス領) | 1月1日 仏軍、ヴェネツィアを占領 ヴェネトはイタリア王国に併合。 | トレンティーノ、バヴァリア王国に併合(〜1809) | 3月 ナーポリを仏軍が占領 ナーポリ王フェルディナンドが逃亡 3月30日 ナポレオーネの弟ジュゼッペ・ブオナパルテがナーポリ王に即位 | 神聖ローマ帝国解体 | 1806 | |||||||||||||||||||||||
1807 | エトルリア王国崩壊 12月 トスカーナはフランスに併合 | 1807 | |||||||||||||||||||||||||||
1808 | 5月24日 パルマ・ピアチェンツァ公国、フランスに併合 | 2月2日 ローマを含むラツィオ、フランス軍に占領される | 2月2日 仏軍がウンブリアを占領 4月2日 マルケ、イタリア王国に | 5月5日 ジュゼッペ・ボナパルテがスペイン王になり、 ナポレオーネの義弟ミュラ、ナーポリ王ジョアッキーノ・ナポレオーネに | スペイン王にジュゼッペ・ボナパルテ | 1808 | |||||||||||||||||||||||
1809 | 10月14日 トレンティーノ、ティロルがイタリア王国へ編入 | ナポレオーネ、エトルリア王国からトスカーナ大公国を復活。エリーザ・アンナ・マリーア・ボナパルテが大公に | 7月 教皇仏軍に逮捕されサヴォーナへ ローマ、教皇庁、フランスに併合 | 仏墺戦争開始 | 1809 | ||||||||||||||||||||||||
1810 | 1810 | ||||||||||||||||||||||||||||
1811 | ナポレオーネの息子がローマ王に | 1811 | |||||||||||||||||||||||||||
1812 | シチーリア王国、憲法を採用 | 1812 | |||||||||||||||||||||||||||
1814 | サルデーニャ王、ヴィットーリオ・エマヌエーレ1世、トリーノに戻る | オーストリア、ヴェネツィアからフランス軍を追放 4月16日 墺仏休戦、ヴェネトはオーストリアに | 4月6日 ナポレオン、エルバ島へ追放 9月22日 ウィーン会議[congresso di Vienna](〜1815) | 1814 | |||||||||||||||||||||||||
1815 | 4月7日 ウィーン会議によってオーストリア皇帝を王とするロンバルド=ヴェネト王国成立。首都はミラーノ。 | パルマ・ピアチェンツァ公国、マリアルイーザ[Maria Luigia d'Absburgo-Lorena]に | モーデナ公国、エステ家フランチェスコ4世に。 マッサ、カッラーラを取得 | ボローニャ以東は教皇領に復帰。 | ロマーニャは教皇領に復帰 | 4月1日 ヴェネツィア、ロンバルド=ヴェネト王国[Lombardo-Veneto]の一部に。 10月31日 墺皇帝フランツ1世、ヴェネツィアに入城 | ポルデノーネはロンバルド-ヴェネト | 5月3日 ミュラ、トレンティーノで墺軍にやぶれ退却 トレンティーノはオーストリア領に | ルッカはブルボン家の元エトルリア王カルロ2世・ルドヴィーコがパルマ公としてルッカ公国に。 | トスカーナ、フェルディナンド3世に帰属 マッサ、カッラーラ、エステ家に。 | 6月 ピオンビーノ公国トスカーナに併合 | 5月24日教皇ピオ7世ローマに戻る | 5月20日 ミュラ、ナーポリを脱出コルシカへ ナーポリ王はフェルディナンド4世に 10月13日 ナーポリに侵攻中のミュラ処刑 | 王はフェルディナンド3世 | 6月9日 ウィーン条約 | 1815 | |||||||||||||
1816 | 12月8日 ナーポリ、シチリア合併して両シチリア王国[Regno delle due sicilie]に。王はフェルディナンド1世(ナーポリの3世、シチーリアの4世と同一人物)。首都はナーポリ | 1816 | |||||||||||||||||||||||||||
1816 | 12月8日 ナーポリ、シチリア合併して両シチリア王国[Regno delle due sicilie]に。王はフェルディナンド1世(ナーポリの3世、シチーリアの4世と同一人物)。首都はナーポリ | 1816 | |||||||||||||||||||||||||||
1820 | 7月2日 ナーポリ革命 | 7月15日シチリア革命 | 1820 | ||||||||||||||||||||||||||
1821 | カルロ・フェリーチェ即位 | 3月 ナーポリ革命政府、オーストリア軍により打倒 | 5月5日 ナポレオーネ死去 | 1821 | |||||||||||||||||||||||||
1822 | ヴェローナ会議[congresso di Verona] | 1822 | |||||||||||||||||||||||||||
1823 | 教皇レオーネ12世即位 | 1823 | |||||||||||||||||||||||||||
1824 | トスカーナ大公フェルディナンド3世死去、レオポルド2世が即位 | 1824 | |||||||||||||||||||||||||||
1829 | 2月10日 教皇レオーネ12世死去 ピオ8世即位 | 1829 | |||||||||||||||||||||||||||
1830 | カルロ・アルベルトがカリニャーノ公[Principe]に | 11月30日 教皇ピオ8世死去 | 両シチリア王にフェルディナンド2世即位 | 1830 | |||||||||||||||||||||||||
1831 | サルデーニャ王カルロ・アルベルト即位 | 教皇グレゴリオ16世即位 | 1831 | ||||||||||||||||||||||||||
1846 | 1月21日 フランチェスコ4世・デステ死去。息子のフランチェスコ5世が後継 | 6月1日 教皇グレゴリオ16世死去 7月 教皇ピオ9世即位 | 1846 | ||||||||||||||||||||||||||
1847 | 12月17日 パルマ公マリア・ルイージャ死去 パルマ公にルッカ公カルロ2世[Carlo II Ludovico]即位 | ルッカ、トスカーナ大公国に併合 | 1847 | ||||||||||||||||||||||||||
1848 | 3月 イタリア第1次独立戦争始まる(〜49) 3月25日 国王、ロンバルディアに進撃 7月23〜25日 カルロ・アルベルト、クストーザ[Custoza]の戦いでオーストリアに敗北 | 3月18日〜22日 反オーストリア勢力によるミラーノの5日[cinque giornate] | 3月23日 ダニエーレ・マニンのヴェネト革命により、ヴェネト共和国(サン・マルコ共和国)樹立 | 4月29日 教皇軍、解放運動から離脱 11月24日 教皇はガエータへ逃亡 11月25日 ローマ教皇国家の首相ペッレグリーノ・ロッシ暗殺。無政府状態に | 5月15日 クーデターで、ナーポリ軍帰還命令 | 1848 | |||||||||||||||||||||||
1849 | 3月23日 サルデーニャ王国軍、ノヴァーラの戦いで墺軍に敗北 カルロ・アルベルト、ポルトガルに亡命 息子のヴィットリオ・エマヌエーレ2世、サルデーニャ国王に即位 | パルマ公カルロ2世、息子のカルロ3世フェルディナンド[Carlo III Ferdinando] 公位を相続 | 8月22日 ヴェネト共和国滅亡 8月26日 墺皇子シジズモンドがヴェネツィアを占領 | 1月、レオポルド2世、ガエータヘ逃亡 4月11日 反革命暴動 | 2月9日 ローマに共和国政府樹立 教皇はトスカーナに逃亡 7月3日 フランス軍により、ローマ共和国滅亡 | 1849 | |||||||||||||||||||||||
1850 | 4月 ピオ9世ローマに戻り、教皇領が回復 | 1850 | |||||||||||||||||||||||||||
1853 | 2月6日 マッツィーニ派による、ミラーノの蜂起。鎮圧される | 1853 | |||||||||||||||||||||||||||
1854 | 3月26日 パルマ公カルロ3世死去 6月9日 後継に息子のロベルトが即位 | 1854 | |||||||||||||||||||||||||||
1857 | 8月1日 マニンが国民協会(Società Nazionale italiana)を設立 | 6月28日 ピサカーネ、サプリに上陸 7月2日 作戦に失敗したピサカーネが自殺 | 9月22日 ダニエーレ・マニン、パリにて死去 | 1857 | |||||||||||||||||||||||||
1858 | 7月21日 プロンビエール[Plombieres]にて、カブールと仏皇帝ナポレオン3世が会談。イタリアを北中南部に統一し北イタリア王国はピエモンテ勢力のものとすると合意 | 1858 | |||||||||||||||||||||||||||
1859 | 4月29日 墺軍進撃開始 第2次イタリア独立戦争始まる 7月11日 ヴィッラフランカの和(休戦)でロンバルディアを併合 ラ・マルモラが王国首相に | 6月4日 マジェンタ[Magenta]の戦い 6月24日 仏軍対墺軍がマントヴァ近郊で「ソルフェリーノ[Solferino]の戦い」 | 6月10日 墺、ピアチェンツァを放棄 7月11日 ヴィッラフランカの和でパルマ公国はサルデーニャ王国へ | 4月 マッサ、カッラーラを失う。 6月11日 モーデナ公フランチェスコ5世オーストリアに亡命 6月13日 モーデナ公国廃止宣言 | フェルディナンド4世、トスカーナ大公に | 両シチリア王にフランチェスコ2世即位 | 7月11日 墺仏間でヴィッラフランカ[Villafranca]の休戦 | ||||||||||||||||||||||
1860 | 5月29日 ニッツァとサヴォイアがフランス領に | 5月29日 ニッツァとサヴォイアで、住民投票によりサルデーニャ王国から分離しフランスに合併することが決定 | 3月18日 パルマ、サルデーニャ王国に併合 | エミーリア、住民投票によりサルデーニャ王国に併合 | ロマーニャ、サルデーニャ王国に併合 | トスカーナ、住民投票によりサルデーニャ王国に併合 | 9月29日 サルデーニャ王、マルケとウンブリアを占領 11月4日 マルケ、ウンブリアで住民投票によりサルデーニャ王国に併合が決定 | 8月18日 ガリバルディ、シチリアから本土上陸 9月6日 フェルディナンド2世ガエータへ逃亡 9月7日 ガリバルディ、ナーポリ入城 10月1日〜2日 ガリバルディ、ヴォルトゥルノの戦いでブルボン軍に勝つ 10月21日 住民投票によりナーポリはサルデーニャ王国に併合 10月25日 ガリバルディ、サルデーニャ王に会見 | 5月14日 ガリバルディ、シチリアのマルサーラに上陸 5月30日 ガリバルディ、パレルモ占領 7月20日 ガリバルディによるシチーリア開放 住民投票によりシチリア、サルデーニャ王国(イタリア統一戦線)に併合 | 1860 | |||||||||||||||||||
1861 | 3月17日 サルデーニャ王国からイタリア王国が成立。国王はヴィットーリオ・エマヌエーレ2世。首都はトリーノ 6月6日 首相カヴール死去 | 1861 | |||||||||||||||||||||||||||
1862 | 8月29日 アスプロモンテの変[battaglia dell'Aspromonte] | 1862 | |||||||||||||||||||||||||||
1865 | 6月 イタリア王国、首都をトリノからフィレンツェに遷都 | フィレンツェ、イタリア王国の首都に | 1865 | ||||||||||||||||||||||||||
1866 | 第3次イタリア独立戦争 | マントヴァを併合 | イタリア王国ヴェネト併合 11月7日 ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世、ヴェネツィアに | 1866 | |||||||||||||||||||||||||
1870 | 9月20日 カドルナ将軍率いるサルデーニャ軍ローマ入城 ローマ併合 | 7月19日 普仏戦争はじまる | 1870 | ||||||||||||||||||||||||||
1871 | ローマがイタリア王国の首都に | 3月26日 パリで革命(パリ・コミューン) | 1871 | ||||||||||||||||||||||||||
1878 | 1月9日 ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世死去 イタリア王ウンベルト1世即位 | 1878 | |||||||||||||||||||||||||||
1918 | 11月3日 トリエステ併合 | 1918 | |||||||||||||||||||||||||||
1919 | トレンティーノの併合 | 1919 |